May 19, 2009

神指城と高瀬の大木

上杉景勝が会津に移されたあとに

新生上杉家の本拠地として築城したのが神指城です。

神指城の詳細についてはここでは触れません。

会津若松城よりも遥かに巨大になる可能性のあった城

とだけ書いておきます。

神指城を考える上でずっと疑問に思っていたことがあります。

それは城の北東部の一角にある高瀬の大木です。

景勝が神指城を作ろうとしていた時点でもかなりの樹齢があり

相当の大木であったようです。

神指城を軍事拠点と考えていたのであれば

あの大木は邪魔以外何者でもありません。

しかし景勝はあの木を切りませんでした。

何故?

その答えは米沢城の縄張りにありました。

米沢城は上杉時代に本丸の一角に謙信廟が設けられ

二の丸の北東部にそれを祀る寺院(大乗寺)が作られましたが

神指城でもおそらくは同じような設計であったろうと思われます。

本丸には謙信廟が二の丸には寺院が建設されたはずです。

そして高瀬の大木の位置は米沢城の縄張り図に当てはめて見ると

ちょうど寺院の一角に当たるのです。

つまりはあの大木をある種の神木・霊木として祀っていたのではないでしょうか?

そういう風に見れば益々景勝の神指城を築いた目的がはっきりしてきますね。

軍事目的よりも政治的・経済的な部分が遥かに大きいこと。

そういえば神指城の想像図がYouTubeに公開されてますが

作者はちゃんと神木にしてます。

やっぱり同じことを考える人はいるんですね(笑)

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March 19, 2009

近衛龍春氏

このたび上下巻で直江兼続を発売してましたが
どうしてこの人の書くキャラってワンパターンなんだろう。
大名・国人はとにかくイライラしてばっか。
氏の描く上杉景勝、佐竹義重、同義宣・・・みんなイラついてるw
ついでに本庄繁長や新発田重家もイラついてましたww
一方軍師タイプはとにかく主君に対して“いいひと”。
今回の直江しかり片倉小十郎しかり・・・

すごい史料を読み込んでいるのはわかるんだけど
あの人の著書でキャラクターに感情移入できる人いるのかな?
まあ初期の頃の上杉景虎あたりは面白かったんだけど
なんか段々と筆力が劣化しているような気がして・・・
同じシミュレーションからの転向組としては
坂上天陽くんのほうがよっぽどか描き方や史料の使い方が上手いと思う。

最近の近衛氏は史実になるべく忠実であろうとする部分に
意識が行き過ぎて返ってストーリーもキャラも味気ないものになっている傾向を感じる。
もっとも史実に忠実っていう部分も結構怪しいんだがな。
立ち読みでのチェックなので御館の乱の辺りは
あまりチェックできていないんだけど
景勝が不義を働いたってことになってたっけ。
最新の片桐氏らの説を採用するとこのようなストーリーには
なりにくいと俺は思うんだがね。

それから兼続の先輩武将斉藤朝信、さらに同僚狩野秀治は出てきません。
いやちょこっと出てたかもしれないけど名前だけ。
狩野なんて一時期は兼続よりも信頼されたんじゃないかっていうくらい
重要な人物だったと思うんだけどなァ。

結局取り上げる史料がこれまでの著書と一緒なんだろうね。
史料提供の名前の中にアンチ景勝筆頭の花ヶ盛氏を見つけた時点で
なんとなく話の筋は見えた気がしたんだけど。
お菊さんは自殺したことにしているし(景勝が看病してるって史料もあるのに)

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February 21, 2009

義風堂々もおかしな方向へ向かっている件

ちょっと前に史実をリスペクトしているって褒めた義風堂々ですが

こっちもおかしな方向へ進みそうです。

兼続が謙信の隠し子ってことですかい?

おいおいそれは無いわwww

天地人が戦闘機による機銃攻撃でジワジワ締め付けるのであれば

義風堂々は絨毯爆撃ってところですかねぇ。

なんでもかんでも謙信と絡めるってシナリオ作りはどうなのって思うんだが・・・

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February 05, 2009

義風堂々のほうが天地人よりもまともに見える件

さっき立ち読みで義風堂々を読んだんですが

こっちの兼続のほうがかっこいいのは仕方ないにしても

時代考証的に破綻が無いのはどうなんでしょうね。

どっちもまだストーリーは序盤まで経過しただけですが

やたらと義・義うるさい天地人の兼続よりも

所作と行動で語る義風堂々の兼続のほうが男らしく魅力的に映るのは

私だけなんでしょうか?

劇画のほうが確かにそういう設定をしやすいのもあるんでしょうが

義風の作家のほうが史実への敬意というのを感じるんですよ。

天地人の脚本家は本当に史実の上杉家について勉強してるのか

あの第5話を見た限りでは疑問を感じますわ。

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December 12, 2008

政繁≠義春だとすると・・・

以前取り上げたことがある上条政繁さんのネタに関してですが

政繁≠義春という説で考えると

景勝の姉or妹が嫁いだのは一体どちらなんでしょう?

と言うか景広・義真・長員の3兄弟はどちらの子供になるんでしょうか?

上記の説が正しいとなると化け物じみた政繁の年齢(99歳で没)も

義春が死没した年と考えれば納得いくものがあります。

また3兄弟の生年などを考えると義春の子供なのでしょう。。。

って思ったらwikiでは いつのまにか別人説でUPされてました

となると・・・政繁の出自が気になりますねぇ。

上条家って定憲以降がよくわからなかったりしますので。

政繁の「政」って上杉憲政からの編諱なのかもしれませんね。

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November 27, 2008

今週の義風堂々

直江パパが出てましたが花の慶次での服部半蔵に似てるんですが(^^;

矛盾だらけのストーリーですがまあいいでしょう

上杉家は越中やら関東やら遠征しまくってたような気がするし

最後に出てきたエロイ秀吉さんは中国遠征の下準備で播磨に

かかりっきりのような気がするんですが・・・

しっかし遊女の志乃さん、やっぱり忍びでしたか・・・

まさか秀吉さんのアレだとは思いもしませんでしたがね。

それにしても

与六が全く16歳に見えない

って言っちゃいかんかwww

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November 23, 2008

今福匡著 「直江兼続」を読む

新人物往来社「直江兼続」を読みました。

はっきり言って現在連発して出版されてる凡百の直江関連の本よりも

専門性においても読みやすさにおいても遥かに上だと断言できます。

著者が以前から上杉家について造詣があるのは知ってましたが

この本はその集大成に近いものと言っていいでしょう。

同じ専門書でも慧文社の「直江兼続伝」は非常に詳しい内容ながらも

古文が多く素人が読み込むにはいささかキツイものがありますが

この本はそれがまずありません。

非常にわかりやすく読みやすいです。

米沢時代の描写が多少少ない感がしないこともないですが

多くの資料を読み込みそれをただ羅列するだけでなく

様々な点から氏ならではの分析・推測をなされており

真実の直江兼続を最もわかりやすく説明してくれているものと言えます。

直江兼続がなにゆえ上杉家において専制政治とも言える地位にあったのか?

景勝との関係はどのようなものであったのか?

兼続の家族・親族はどうなのか? と言ったものもあれば

閻魔王や大判などの直江絡みのエピソードに対する注釈(?)もあり

これ一冊があれば直江兼続がわかる、とまでは言いませんが

ある程度戦国時代がお好きな方にはぜひとも読んでいただきたい一冊です。

個人的に一番嬉しかったのは兼続の同僚である狩野秀治について

比較的詳しく描かれていたことですね。                                                          

もっともちょっとマニアックなツッコミをさせていただくと

上記の米沢時代の描写以外にも

新発田攻めの部分が簡単に描きすぎかなぁ、と思わんでもないです。

というのは1583年の放生橋の合戦以降も上杉景勝は何度か新発田へ

兵を向けており1584年の八幡の合戦もかなりの激戦であったようです。

またその翌年も新発田城を包囲するだけでなく

調略によって水原城を奪回しております。

同年の新潟三津奪回の件は触れられてましたが・・・

この間に繰り広げられた政治活動が重要であることは間違いないことですがね。

                                                           

まあこんなのは些事です。

このところ連発で出版されてる直江関連の本の中では

間違いなく一番の良書だと思います

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November 17, 2008

義風堂々!!直江兼続 第一話 

まずはじめにネタバレがありますので

まだ読んでいないという方はこの記事は見ないほうがいいと思います。

週間コミックバンチより連載がはじまりました。

原作者が原哲夫さんだからということもありますが

基本的に花の慶次を“あらゆる面”で踏襲しようとしております。

・ 主役の個人戦闘力がバケモノ級、しかも16歳に見えない

・ 一部女性キャラが若過ぎ(今回は謙信の姉仙桃院)

・  一目でわかる雑魚キャラ

画的にも花の慶次路線を引き継いでる感はありますが

遊女や暴行受けた商人の顔などを見ると

やや深みが足りない感があって

そういう部分で原さんと比較されちゃうんじゃないかと危惧します。

無理に原さんの真似をする必要は無いと思うんですがねぇ。

僕は初代タイガーマスクも好きでしたけど

初代と比べるとややモッサリ感のある二代目タイガーも大好きでしたので

漫画担当の武村さんの地をもっと出しても

いいんじゃないかと思います(どういう理屈だ^^;;)

っていうか初代が偉大だと二代目は大変なんですよマジで(笑)

まあ史実的なツッコミどころが初回から満載なのは哲夫クオリティw

冒頭の前田慶次と直江兼続が酒を無苦庵にて酒を酌み交わす時期ですが

兼続が41歳とありましたので1601年ということになりますね。

その時期の上杉家は米沢へ移動してこれから藩政をどうしようか?

って時期でして、

一部家臣には宅地すらなく一軒家に2~3家族も同居させており

それなのにどうやってあの庵を作ったんだ?

などというヤボなツッコミからはじまり

また直江も藩政運営でやらなきゃならんことが山積み状態で

ノンビリ酒飲んでる場合じゃねぇだろ!

などと思ったりもしたわけですが

きっと彼は政治で疲れたので気分転換をしに慶次の元へ訪れたんだろう

と思うことにしました(笑)

で、慶次が月に向かって兼続の昔話を

語るというシーンからはじまるわけですが

いったい誰から兼続の過去を訊いたんだ?>慶次(やめなさいって!^^;;)

                                                       

話は1576年からスタートするのですが

凛々しくもあり清楚な感のある尼さんが憂いの表情を見せるシーンから・・・

どこの若未亡人だよ、と思ったら仙桃院さん。

とても52歳には見えん(爆)

つうか息子(景勝)や弟(謙信)のほうが老けてるぞ!(^^;;;

彼女は上杉景勝の屋敷にて兼続を探しまわっていたようですが

いったい何ゆえあのような憂いの表情を見せ

さらに与六(兼続)が安土へ行ったことを知ったら激怒したんでしょうか?

そのヒントは物語後半の弟上杉謙信との会話にあるような気がします。

仙桃院さんが謙信に向かって以下のセリフを述べておられます。

「あの子が幼き頃より我が目をかけ

景勝の小姓として育て上げたのは他ならぬこの仙桃院じゃ!」

幼きころより目をかけ小姓として育て上げた・・・育て上げた・・・育て上げた・・・

うーん・・・・(^^;;;;;;;

仙桃院さんが若さを保っている秘訣はこの辺りにあるのかも(^^;;;

ってな話はどうでもよくて

与六は織田信長がいかなる人物なのかを見に行くために安土へ行ったそうです。

その安土では安土城の築城工事で街ができ、大層な賑わい。

そんなときに人買商人から身請けした女をめぐって

ふとどきモノと善良そうな商人といざこざが。

商人の女房が実は前者のふとどきモノが戦場でさらってきた奴隷で

それを俺のものだ!っと言いがかりをつけてくるのです。

既にその女性は商人が身請けしており

あきらかに前者が悪いのですが誰も止めるものがおらず

商人ピーンチ!って時に響き渡るギター(嘘)

じゃなくて虎皮の上着を羽織った坊主(与六)が登場。

信長が安土城下に掲げた掟(盗品と知らずに買えば買った者には罪無し)

を盾に、この盗賊もどきに向かって説教をたれます。

が、悪人にはそういう説得はやっぱり通じないわけで

この後はお約束のバケモノバトルでして・・・

この悪党一派は頭目が目玉を失って退散しますが

この戦いに協力したのがこれまた度胸満点な遊女さん。

お名前が志乃さんという方なんですが

彼女が信長が安土に街を作った狙いを枕しながら与六に語ります。

っていうか16歳の若さで遊女をヘロヘロにするって

直江兼続って政治だけでなく性事も早熟だったんですね(爆)

しかしこの志乃さんって女性も単なる遊郭の花魁じゃなさそうです。

これほどまで事情通だとねぇ・・・

まさか真田の女忍びか?>それじゃ天地人だよ(^^;;;

さて与六が安土へ勝手に行ったことについて

謙信に愚痴りに行った仙桃院さん。

しかし謙信はそんな与六に対して腹を立てるどころか

雲のように一所へ留まることの無い男と評価します。

そしてその雲のような男がいつか上杉を守るのではないか、と・・・

同じ頃与六も志乃に名を問われ、

「皆俺のことを雲と呼んでおる!」

と語ります。

この志乃さんってキャラは結構重要そうなキャラかも。

いずれ登場するお船さんとどうキャラ分けしていくんでしょうねぇ。

                                                              

次回も巻頭カラーです。

秀吉が登場するのかな?

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November 07, 2008

プロレスファンに来年の大河のあるシーンをわかりやすく紹介?

直江兼続が関ヶ原の合戦の直前に徳川家康へ

間接的に送ったと言われる手紙があります。

一般には直江状と言われていますが

この内容について歴史に関心の無いプロレスファン限定で説明しやすく

まとめてくれた記事が某巨大掲示板のスレにありました。

一部手直ししてますが、あまりにも面白かったので紹介します

これを最初読んだ時は思いっきりお茶吹きました。

                                                            

インタビュアー(以後イ): 手紙を書いたそうだが

直江: んー。。。手紙っていうかぶっちゃけ文句だよね(苦笑)

イ: なぜ書いたのか?

直江: いや内府がね、ちょっとこう無茶苦茶言うもんだからね。

こっちもカタくなるよね。

イ: 家康公は何と?

直江: なんか謀反がどうのこうのみたいでね。・・・・謀反て・・・ねぇ(笑)。

イ なぜ疑われたのか?

直江: 疑われたっていうか結局難癖つけたいだけだよね、明らかに。

ウチがちょっと軍備を増やしたのが謀反の疑いありだって。

(はき捨てる口調で) バカじゃねーの!

イ: 謀反の意志は無いと?

直江: ないない、思ったこともねーよ。

・・・・つうかさ、ちょっと言わせてもらっていい?

イ: いつになく饒舌だが

直江: いや俺もこんなくだらねえこと続くとキレますよ、と。

ちょっと内府に逆に聞きたいけど、

例えば伏見と京って三里くらいしか離れてないよね?

だけどずいぶんくだらない噂が流れているんじゃない?

会津と上方がいったい何里離れていますか?と

どんな風説が流布されても不思議じゃないよね。

内府殿は距離わかってますかって逆に聞きたいくらいだよね、まず。

イ: 辛辣だ

直江: こんなの辛辣でもなんでもねえーよ(苦笑)

あとカチンっと来たのが誓紙出せとか言ってることだよね

カチンと来たっつうか爆笑しちゃったけど(笑)

イ: 何故笑ったのか?

直江: だってねぇ・・・・今実際思い出し笑いしちゃってるけど(笑)

内府ちゃんも太閤殿下に誓紙出してたよね?

勝手に婚姻関係結ばないっていうやつをさ。

でもアレ無かったことにしてるよね、一年もたたずに(爆笑)

一年くらい我慢しろっつうの(笑)

イ: 約束を破っているのは家康公のほうということか?

直江: だから人として武士としてどうなのってことだよね、ぶっちゃけね。

武士と言えばさ、あんま言いたか無いんだけど

最近上方じゃ茶の湯三昧らしいよね、茶・の・湯(笑)

まあ別にいいんだけどさ、こっちはそんなお上品な趣味は

はっきり言って持ち合わせていないんだよね。だって俺らは武士だから。

言わせてもらえばさ、武士なら武具そろえたり、

武芸にいそしんだりするのって当たり前のことなんじゃないの?

領内整備だって領民のためだろ?普通に。

イ: 他に家康公に言いたいことは?

直江: あるよー、あと七万個くらい(笑)。まあ口で言ってもねぇ。

だいたい周りが内府ちゃんに何て言ってるのかわかんないけど

そういうのいちいち弁解しないといけないの?

そんなに暇じゃないよね、上方のお上品な武士の皆さんでもあるまいし(笑)

あと聞いた話だけど、前田さんにお仕置きしたらしいね。

はー大層なご威光をお持ちですね。

イ: ここまで言うと合戦の危険性もあると思われるが?

直江: 合戦?べリーウェルカムですよ。やってもいいよぉ。

けど北国の田舎武士をあんま舐めないほうがいいんじゃない?

降りかかる火の粉ははらうよ。

 

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November 06, 2008

広島城について

今度の日曜日に毛利家時代の広島城に関するシンポジウム

広島市西区の区民文化センターであるようなので行ってきます。

上杉党のトラマでありますが

なんだかんだでやっぱり地元の毛利家も好きなのさ。

特に地味な扱いの毛利隆元とか(笑)

三浦正幸先生などメジャー級のセンセイ方も講演されるみたいなので

これはこれで非常に楽しみであります。

広島という街を見直すという意味でも面白いかもしれない。

                                                           

ところで

広島カープの由来くらいはカープファンは当然知ってるよな?

知らんヤツは勉強しろw

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October 29, 2008

新発田家の反乱についての疑問

先日購入した直江本を少しずつ、とりあえず興味のあるところから読んでます。

新発田重家の反乱について少々疑問が・・・・

景勝は隣国の葦名家に向かって新発田の乱について度々書状を送っています。

一番知られているのは本能寺の変直後の上方の混乱について

ガセネタ(例:秀吉の討ち死に)も含めてあれこれ書き綴ったやつですが

その後も新発田攻めの戦況などや協力を求める書状などを送ってます。

が、葦名家は裏では新発田を密かに支援しておりました。

どういう意図で葦名家へ書状を送っていたんでしょうかね?

ちなみに天正12年の新発田攻めで赤谷城を景勝は攻めようとしてますので

葦名家の本音の部分は景勝側は既に把握していたと思われます。

戦況報告のふりをした修好を求めるものだったのか?

あるいは新発田との縁切り強要の脅しか?

                                                           

一方で葦名家にとって新発田を支援するのはどういう意図なのか?

ただ単に上杉家への盾とするというだけではないでしょう。

おそらくは海・湊を欲していたものと思われます。

謙信時代にもしばしば葦名氏は越後へ出兵していることからも

案外新発田の乱は海への道を開く絶好の機会であったことでしょう。

津川の城主であった金上氏あたりが中心となって推進したのでは?

だって河川交通の利権にもっとも関わるのは彼らだしねぇ・・・

                                                             

と、まあこんな想像を働かせながら読み進めております。

いつ読了するのやら。

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October 23, 2008

上杉関連書籍続々と

先日直江本を購入しましたが、まだ目を通さないうちに

こんどはPHPより戦国最強上杉武将伝なる本が出てましたので

プーチン率いるロシアの行方について書いてあった本とともに購入。

上杉家臣団の中でもややマイナーというか一癖も二癖もあるような武将

本庄繁長とか北条高広の話とか書いてあったのが興を引いた。

もしかしたら分厚い直江本よりも先に完読してしまうかもしれない。

前にも言った記憶があるが

上杉家が最強だとは思っていないし(総合力で北条家のほうが強いと思ってます)

義だけのために行動したなどと思っていない。

つうかそんなお人好しな人物だったら戦国大名なんぞなれんでしょ(笑)

越後の国人衆を統率するために関東管領の権威が必要であったし

その本国である上野を守るために関東へ出陣し続けたとも言えなくも無い。

まあ謙信のことを僕があれこれ書くと

噛み付いてくる人が出てくるかもしれないのでこのくらいで(笑)

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October 16, 2008

直江兼続伝購入

慧文社より刊行された『直江兼続伝』を購入しました。

価格も高いし、かなり分厚い本なので時間がかかりそうですが

なかなか勉強になりそうです。

来年の大河ドラマの主人公をより詳細に知りたい方で

古文・漢文が苦にならない方にはお勧めです。

ちなみにトラマは・・・・古文は苦手です(爆)

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September 22, 2008

お前!平田だろ!

す、すいませんプロレス好きな方しかわからないタイトルですね(^^;;;

ただし今回はプロレスネタではありませぬ。

来年の大河ドラマで上杉家が昨年以上に脚光を浴びることとなるわけですが

その中の一人に清野長範という人物がおります。

ネット仲間でもある三楽先生のところでの紹介記事が

一番わかりやすいのでこちらを参照していただきたいのですが

彼もいわゆる“イケメン”だったようです。

来年の大河ドラマに彼が出るのかどうか知りませんが

キャストがかなりイケメン揃いな感もあるんで

せっかくなら長範も出して欲しいなァ(笑)

容姿が美しいだけではなくかなりの器量人でもあったらしく

後に米沢藩の奉行職についたりしております。

米沢市には周防殿堰、周防殿橋といった長範ゆかりの地名も残っているため

直江兼続に負けず劣らず米沢藩の発展に彼も尽力したものと思われます。

主君景勝にはかなり気に入られていたそうですが

同輩の家臣たちからはどういう風に思われていたんでしょうかねぇ?

来年の大河の主人公は『謙信の稚児』だとか『景勝の衆道の相手』などと

揶揄するような言われ方をされる場合もあるようですが

少なくとも後者においては長範のほうが相応しいような気もしますね(笑)

彼は直江兼続同様に名族の跡を襲って『清野長範』と名乗るわけですが

彼に嫉妬した家臣からはきっと

「お前!平田だろ!」

などと揶揄された・・・・わけはないですね(笑)

                                                           

というわけで意味がわかんねぇって人はこちらをご覧ください。

もっとわからんことになるかもしれんが(^^;;;

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August 27, 2008

「蘇る越後福嶋城」を読む

先週月曜日から木曜日まで北陸出張に出てました。

で、そのときにGETしたのが↓の本。

http://www.free-style.biz/book/archives/2007/09/post_302.html

越後福島城は上越市の直江津地区にあった城ですが

わずか7年で廃城になりました。

その原因はいろいろとあるようですが

一番の理由は洪水が発生しやすくなっていたからだ

ということをわかりやすく説明してくれているのがうれしい。

この城は関川と保倉川に囲まれた島のような土地に作られ

築城の際に排水を良くするために保倉川の流れを変えて

直接日本海に流れ込むように河口を掘削したのですが

日本海の荒波によって土砂が押し戻されて土砂が溜まり

さらに関川の水量が減少したことでこちらの土砂まで溜まり

水害が頻発するようになったようです。

松平忠輝が高田へ城を移したのは幕府の方針もありますが

それ以上に自然条件というものの方が大きかったものと思われます。

堀家がなぜこのような築城をしたのか?ということについては

織田・豊臣流の築城術へのこだわりというか過信があったように思います。

秀吉の伏見城が好例ですが

織豊流の築城技術は地形まで変えるような高度かつ大掛かりなもので

それが彼らの富や権力の大きさを示すものであったように思います。

そして堀家の場合も前領主の上杉家のカラーを打ち消す意味でも

自然を改変するくらいの規模の土木工事を行ない

越後の民に権威を示す必要があったのでしょう。

加えて海上交通を重視する意味でも福島の地に城を建設したのです。

ただ北国の荒波の凄まじさを計算していなかった。

彼らがこれまで活動してきた琵琶湖や瀬戸内海とは違うのです。

北陸以北の日本海側の近世城郭で海に面して築かれた城は

少ないんじゃないでしょうか?

私が記憶している限りでは小浜城、宮津城くらいですね。

それにこの二つの城は湾内にあるため

直江津に比べると日本海の荒波が緩和されやすい条件であるようです。

まさかとは思いますが堀秀治が若死にしたのは

福島城築城が思い通りにはかどらずに悶死した

とかだったりして(笑)

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August 14, 2008

たらればシリーズ 堀秀政が長生きしてたら

久々の戦国ネタで適度に思うところを書いてみます。

第一弾は「堀秀政が長生きしてたら」です。

堀秀政は織田信長の近習からスタートして

後に豊臣秀吉の天下統一の重要な合戦で功を上げ

最終的には越前18万石の大名に出世していきました。

元々信長の近習を務めていただけあって非常に能力が高く

何をやってもそつなくこなすことから

名人久太郎と呼ばれていました。

年齢的にも加藤清正や石田三成ら、

いわゆる秀吉子飼いの武将よりもひと世代上で

もっと長生きしていれば間違いなく五大老級の扱いを受けたものと思われます。

残念ながら小田原の攻めの真っ最中に陣没してしまうんですがね。

で、彼が小田原以後も生きていたら・・・・・どこに転封されてたんでしょうね?

一説には家康ではなく秀政に関東をまかせるなんて話もあったみたいですが

徳川家が当時東国の取次ぎをやっていたという事情を考えると

秀政が江戸で200万石の大大名に、っていう展開は難しいかと。

徳川家がなんだかんだで関東の旗頭となると思うのですが

その徳川を抑える役割を秀政に期待されるんじゃないでしょうか?

個人的に一番可能性が高いんじゃないかと思うのは

上野(群馬県)一国かなァ(真田領は除く)。

上野は50万石ほどある大国ですし

同世代の蒲生氏郷が会津に42万石で転封されてることからも

石高的には妥当だと思うんですよ。

問題は秀政に上野で何をやらせるか、ってことなんですが

1.佐竹家・宇都宮家ら北関東および信濃の大名の統制

2.徳川家の監視

以上2点が中心となりますかね。

監視の対象は越後上杉家も含まれるものと思われます。

1についてはこれを元々やっていたのは上杉家でした。

小田原の陣直前までいわゆる反北条側の大名への取次ぎを

上杉景勝がやっていたのです。

それを引き継ぐことで関東を南北に分断することができます。

関東における勢力の境界線は利根川になるでしょう。

当時の利根川は今とは流れが全然異なってますし

今と違って橋もかかっていないですからね。

徳川家は西は箱根山脈、北は利根川などの河川で封じ込まれる。

しかも北の堀家は上野だけでなく信濃の大名も組下にしてるから

実質的には70~80万石級の大名に等しい。

だから家康も身動きが取れなくなるだろう・・・

ってなことを豊臣家の首脳は考えるんじゃないかと思うんですが・・・

じゃあ秀政は豊臣家の期待に応えて徳川を抑えにかかるかどうかは

なんとも言えないところではあるのですが

秀政が生きている間は家康は動きづらいだろうな、とは思います。

堀直政ら優秀な家臣もいたので

徳川家にとっては鬼門となりそうな存在であったろうと。

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July 08, 2008

今年もあの人が・・・

今年の8月に上越市で行なわれる謙信公祭りですが

昨年に引き続きアノ人が謙信を演じるそうです

見かけによらず義理堅いことを昨年実証してくれた彼の謙信が

今年も上越市民および観光客を魅了することでしょう。

時間があれば俺も見に行きたいんだけどなァ

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July 04, 2008

本来は喜ぶべきなんだろうが

来年の大河へ向けて色々と直江関連グッズを発売しているようですが

なんかそういう記事を見ると妙に冷めてしまうというか

ムカつくというか、腹立たしいというか・・・・

なんでなんでしょうね?

いや、彼が世間に認知されることについては

喜ばしいことではあると思っていないわけじゃないのですが・・・

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May 19, 2008

上条政繁の扱い

戦国上杉家に興味があってトラマのブログの戦国関連記事を

何度か目を通している方だけお読みください。

                                                             

密かに書き進めようとしている文物で扱いに厄介な武将が何人かいる。

その中の筆頭が上条政繁。

彼をどう生かそうか、否、どこでお亡くなりになっていただくか(笑)

を思案しているのである。

上杉景勝と正室お菊の方との間には

ついに世継ぎが生まれなかった(後継者である定勝は側室の子)

つうわけで一族から養子を取らないといけない立場なのであるが

数少ない血縁者が一門衆である上条政繁の息子たち。

政繁が景勝の姉と結婚したのか、妹と結婚したのか

いささか不明な点があるのだが

年齢的に考えて景勝の姉ではないかと私は推測しているので

姉婿ということにする。

で、三人の息子も景勝の姉との間の子供ということにする。

問題なのは上条政繁が歴史上では上杉家を出奔していることなのだ

上条の出奔の理由は諸説あって、どれもうなずけるものばかりなのだが

そうなると三人の子供の扱いはどうなる?って感じなんですわ。

で、トラマが考えたのは

上条政繁さんにどこかで戦死していただく

ってことなんですけど。。。

いやそのほうが景勝側にとってはメリットが大きいと思うんですよ。

謙信が景勝を引き取った史実を思い浮かべていただければ

トラマが何を言いたいのかわかると思います。

政繁が戦死したとすると後に残された姉と子供たちは当然景勝が引き取ります。

そうなると彼らはいずれ景勝の養子となるわけでして

まず後継者ができる(しかもスペアが二人)。

それから一門衆の再編ができる(政繁と景勝は円滑な関係とは言い難かった)。

まあ毛利三兄弟みたいに優秀であればなおいいのですが

そういう話は聞いたことがないので(笑)

ただ上記の謙信が景勝を引き取ったときとは異なり

政繁の死が息子たちに疑念を抱かせるようなものではあってはならない

ここがミソだと思うんです。

当初は政繁が北信濃の郡代をやっているときに

真田の調略にひっかかった国衆に殺されるって展開を考えてたんですが

その後のストーリー展開上で真田はキーパーソンになるので

いらぬ疑いを真田(と景勝&兼続)に抱かせるのはマズイって思って

じゃあどのシチュエーションがいいのか考えたんですが・・・

景勝が新発田重家に破れる法正橋の合戦で

景勝を逃がすために犠牲になって・・・・

って展開のほうがいいのかなァ。。。

佐々成政や徳川家康との戦いで戦死っていうのは

あまりイメージが沸いてこないんでねぇ。

うーん・・・・・

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April 16, 2008

柿崎さん

最近超時空要塞マクロス(ただし最初のヤツね)にハマっているせいか

どうも柿崎っていうのがいろんな意味で気になる。

マクロスに登場する柿崎さんははっきり言ってヘタレ

主人公の一条輝や同僚のマックスのフォローが無ければ

早々に撃墜されてたでしょうねぇ。

体格は良くて勇猛なのはわかるんだけどねぇ・・・・

で、戦国好きのトラマが気になる柿崎さんといえば

去年の大河ドラマでも登場した柿崎景家さん

戦国シミュレーション系のゲームでは上杉家臣団の中で一・二を争う強さ。

ところがゲームだと合戦以外は使えないのよねぇ。

で、ふと思ったんだけどこのゲームでの合戦バカとしか思えない

柿崎景家のキャラ設定にマクロスの柿崎さんの存在も影響したんじゃね?

光栄の信長の野望シリーズが発売されたのが1983年

一方マクロスの放映が1982年から1983年にかけて。

うーん・・・・まさかとは思うけどねぇ。。。

勇猛なところは似てるけど方や越後一の猛将、

方やマクロス随一の愛すべきヘタレキャラ(笑)

でも柿崎景家って肖像画は残っていないから

あっちの柿崎さんをちょっとアレンジして・・・・無いわ(爆)

実際の柿崎景家さんは実務面でもかなり有能だったらしいんだけど

なんでこんな合戦バカの設定になったのか悩むわ

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April 12, 2008

景勝・兼続主従の夢の跡?

Youtubeで会津・神指城完成予想図をUPされている方がいました。

ご存じない方のために簡単に説明すると

神指城とは上杉景勝が1600年に築きはじめた城で

この城の築城をネタに徳川家康は上杉家へイチャモンをつけた事が

後の関ヶ原の合戦へとつながっていきます。

それだけいわくつきの城だったのですが

未完成のうちに上杉家が戦争状態に入ってしまい工事は中断。

結局米沢へ転封されてしまったためにそのまま廃城となりました。

石垣などの資材は会津若松城の増改築に転用されたようです。

戦国関連の雑誌などを見ると徳川軍をおびき寄せのための城と

書かれてた記事が多かったようですが

実地を検分したり発掘調査などの結果から

上杉家は本気で本拠地を会津若松城から移そうとしていたことが

立証されてきているような気がします。

また幕末の奥羽戦争で会津若松城がすぐ近くの小田山から

砲撃をうけて大損害を出したことから

上杉家が若松城の弱点(山が近く、そこから砲撃されると脆い)

を認識していたという伝聞も正しかったようですね。

紹介した動画を単なる妄想と決め付けるのは簡単ですが

(本丸に御殿が無いのと天守閣の破風が直線的すぎる点が残念)

完成していればこの動画に近い規模の城となっていた可能性は高いと思います。

まあ来年の大河ドラマではどう扱うんでしょうね。

工事中でなーんも画が出ないうちに終わっちゃいそうな気がしますが

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March 02, 2008

吉川元春館跡

朝広島駅まで父を送った後にこのまま帰るのが惜しかったので

一気に北広島町まで遠征してきました。

目的地は旧豊平町にある吉川元春館跡こちらが詳しい)。

実は大河ドラマで毛利元就をやったときに

放送終了して数ヵ月後に訪れたことがあったんですが

そのときは歴史博物館のような建物は無く

まだ発掘中だったんです。

で、先日某コミュニティFMで昨年8月に「戦国の庭 歴史館」という

展示施設がオープンした、という話を聞いて早速訪ねました。

県北地区は雪はどうなのかな、と気になってましたが

路面上はほぼ融けており問題なく行き着くことができました。

今回は館跡と万徳院跡を訪ねましたが

「何をやっとんじゃ!火の山城まで行かにゃ

本物のモトハラーじゃねぇぞ!」

などと某熱狂的吉川元春マニアに怒られそうですが(^^;

056

 吉川元春が1983年に隠居後の住居として建設

                                                      

                                                   

                                                     

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  正門です。

                                                        

                                                         

                                                        

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 復元された台所。

                                                              

                                                          

                                                           

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  同じく復元された庭園

                                                          

                                                         

                                                         

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  吉川元春墓所(息子の元長の墓所もある)

                                                           

                                                            

                                                          

062

                                                         

 昨年8月にオープンした展示館

                                                            

                                                            

                                                           

064

                                                           

 吉川元春館復元模型(実はこれが見たかった!)

                                                          

                                                           

                                                            

066_2

                                                             

 近くにある万徳院(吉川元長が作った寺院)跡の庭園

                                                              

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December 24, 2007

武田・上杉書簡について

先日長野で山田邦明氏の武田・上杉氏の書簡に関する講演があったそうですが

ご覧になった方いらっしゃったらコメント欄で解説いただけないでしょうか?

個人的にすごい興味のある演題なので

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December 22, 2007

再来年の大河ドラマの話

主人公直江兼続役が決まったようだが

その主君たる上杉景勝や後半出てくるであろう前田慶次を

誰が演じるか?に興味がある。

景勝はおそろしいほど寡黙だったらしいし

相方の妻夫木くんがなんとなく癒し系キャラになりそうなんで

まあこの際アレだ

沢尻エリカにやらせてみたらどうかね

後藤久美子が北畠顕家を演じたことがあったから

Gackt謙信を押し切った犬HKならできるだろw

例えば前半の山場でもある御館の乱の一場面

                                                           

謙信危篤という知らせを上条や斉藤といった重臣から受け

実城(本丸)へと急ぐ景勝一行。

そのとき門番が景勝の進入を抑えようと立ちふさがった。

門番 「これは御中城様(景勝)。実城へ一体何用で参られるのか?」

景勝 「御館様(謙信)の見舞いに行くだけですが何か?・・・」

門番 「・・・・・・」

尻ごむ門番を無視して実城へやってきた景勝。

そんな景勝を重臣の斉藤朝信が出迎えた。

朝信 「御中城様、こたびのご決断朝信感服いたしました!」

景勝 「別に・・・・・」

朝信 「・・・・・・」

                                                           

どう?こんな景勝見たいと思わないか?>思いません

                                                              

前田慶次は浅倉威しかトラマには思いつきません(^^;

つうか浅倉みたいに暴れる慶次が見てみたい。

「出羽守(最上義光)!俺と戦え!俺をもっと楽しませろ!」

と突進していく蛇皮の陣羽織に茶髪の前田慶次(^^;;;

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December 19, 2007

もし猪木が・・・

アントニオ猪木が平安末期に生まれていたら

「みなさーん!源氏ですかー!」

「源氏であれば幕府が開ける!」

「イーチ!ニー!サン!夜討ちダー!」

す、すいませんm(__)m

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October 21, 2007

大熊さん、謀反

今日NHKの大河ドラマ風林火山で

長尾景虎(後の上杉謙信)の家臣である大熊という武将が謀反を起こします。

彼が謀反を起こす理由はいろいろあるのですが

もしかしたら合戦のときに

「オイ!柿崎!柿崎!柿崎!」

とか

「直江!上がれ!上がれって!」

とか

「サンキュー!宇佐美!」

などと大声で叫ぶもんだから

同僚からうざがられていたのかもしれませんね(^^;;;

ええっと元ネタはこちらこちらで確認してねw

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September 25, 2007

結局謙信は後継者を決めてたのか?

歴史群像の御館の乱の記事を読んで以前くだらない

反論をしたのだがどうにもスッキリしない。

謙信が景虎を後継者にしようとしていたのは

状況証拠からいって明らかだ、と言い切っちゃうのはどうかと・・・

確かに弾正少弼の件で景勝が自称した可能性があるのは否定はできんが

当の景虎が葦名家への手紙で景勝のことを少弼と記入しているのは

どう説明したらよいのか?

弾正少弼に景勝が任じられたとき祝いの席が設けられたという話もある。

何から何まで景勝が簒奪した、というのもどうかと思う。

というか

謙信はなーんも決めてなかったのが真相じゃね?

正確には決められなかったんじゃないかと・・・

俺は景勝が後継者の地位を勝ち取ったという風に見ている。

景勝と景虎はほぼ同格(やや後者が上だが)だったんじゃないかと思うのだ。

もちろんそれぞれの家格を比べれば確かに景虎のほうが上だ。

だがどちらかを後継者に擬していたのであれば

大々的に宣伝するのが普通だよね?

上記の歴史群像でもそれらしい事例(景虎が寺社へ礼状を発していた)を

取り上げいたし、御館の乱のときに居多神社などが景虎に味方したとか

何よりも軍役が課せられていなかったから

というのもあるんだが

まともな譜代家臣団を持たないで大名家なんてやってられるのか?

それってこじつけに近い感じが俺はするんだがな。

それに景虎が合戦に出た、って話を聞いたことが無い。

景勝は謙信の名代で何度か合戦には出ている。

これだけでも景勝が十分高い地位にいた証拠じゃないのか?

                                                           

景勝=越後国主

景虎=関東管領

                                                            

これが機能するかどうかは別問題としても

結局謙信が考えていたのはこの線に落ち着くと思うんだがな。

元々上杉家は関東管領家と越後家って別だったわけだしねぇ。

っていうか

景勝のほうが勝ったわけだから器量が上だった

これが結論っしょw

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September 22, 2007

西田尚美さんの妊娠のニュースを見て

男の子が生まれたら

名前は景勝

にして欲しいと思った俺は上杉バカ(^^;

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August 31, 2007

ガクト謙信がハッスルしている件について

今年の夏、上越市で行なわれた謙信祭りはかなり盛り上がった模様。

特に大河ドラマ風林火山で何気にハマっているんじゃないかと言われている

ガクト氏が謙信になり切って出演したそうで

しかもかなりかっこよかったらしい

俺も時間と予算があれば見に行きたかった。

謙信はある部分で狂的な面もあるので

そういうところをガクトが引き出してくれれば

謙信を演じた役者の中でかなり印象に残る演者となるかもしれない。

ってしばらく大河では出番は無さそうだけど。

ところで再来年の謙信祭りでは兼続と景勝は出る予定なのかね?

彼らが登場するというのは歴史に詳しいものからすると

いささか納得しがたい、というか許せないところもあるんじゃないのかな。

なんせ上杉家をクーデターで乗っ取っちゃったんだから。

でも俺はそんな景勝が好きだよw

                                                  

【追記】

ガクト氏の謙信公祭りでの様子が動画でUPされてましたね。

ぷれっそさん紹介いただき感謝です

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June 25, 2007

現代に生きる直江さん(笑)

直江でGoogleで検索してみたら金沢の醤油屋さんのサイトに出くわしました。

こちらの直江さんは私のよく知る直江さんとは全く関係ないようですが

再来年になったら

「え!あなたあの直江兼続と何か関係でも?」

などと質問されまくりなんでしょうなァ(笑)

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May 26, 2007

歴群『御館の乱』の返事が来ました

細かい記述の公開はこちらでは避けますが

概ね納得いくものであったと思います。

まあ1574から謙信が亡くなるまでの上杉家が

一致団結していたかどうかについては疑問が残るところですが

具体的な事象や資料が無い限りは妄想の域を出ないわけなので。

小説の題材にするには面白いかもしれませんね。

『上杉謙信殺人事件』

とか(笑)

いずれにしても

へそ曲がりな歴史好きのトラマに対して

親切丁寧かつ冷静に対応していただいた歴群スタッフに

改めて御礼を申し上げます。

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March 18, 2007

今月の歴史群像特集記事「御館の乱」

いつも戦国関係でお世話になっている三楽さんの掲示板

微妙に盛り上がっているのが

歴史群像で特集で組まれている御館の乱のことです。

御館の乱とは今現在放映中の大河ドラマ風林火山の副主人公格の

武田信玄のライバルである上杉謙信が急病で亡くなって

その後継者をめぐって上杉家が二分されて争った戦いのことを言います。

謙信は独身だったため当然子供がおらず後継者は養子で争われたのです。

一人が甥にあたる景勝、もう一人が小田原北条家出身の景虎。

実はもう一人養子がいますが彼は上杉家の別家を継いでますので除外。

で、結局後継者争いに勝ったのは前者なのですが

このことを特集記事として詳細に福田誠さんという方が書いています。

いろいろ資料を集めて通説に対する反論を交えながら

御館の乱についてまとめているのですが

ひとつ気になったのが

景勝と景虎の春日山城(上杉家の本拠地)での居住地の位置です。

図説中世の越後など私が手元に持っている春日山城の図を見ると

どう見ても景勝屋敷のほうが景虎屋敷よりも高い位置にあるようにしか・・・

で、歴群のイラストと見比べてみると・・・

景勝屋敷の場所が違うやん!

そうなんです歴群のほうが間違って記載しているんです。

というか筆者の福田さんはまず景勝のクーデターありきで

文章を書いているんじゃないのか?

そりゃ通説をひっくり返したい記事を書きたい気持ちはわかるけど

事実を捻じ曲げてまで書いたらマズイだろ?

そんな疑いを今回の特集記事に持ったのですが

学研に送っちゃりましょうか?ツッコミメールを(笑)

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史跡めぐり 熊本編

さて翌土曜日は延岡から高千穂へ抜け

阿蘇山地を横断して熊本市へ。

153  走行中だったのであまり写真は撮れませんでしたが

  雄大な自然の風景を楽しみながら一路熊本へ

                                                             

途中御船町というところを通ったときに

甲斐氏が本拠としていた御船城とおぼしき丘を見つけたので

そこへ寄りたかったのですが時間の都合で断念。

熊本市内で商談を済ませた後にせっかくなので熊本城へ

前にも行ったことがあるので今回は中には入りませんでした。

158  手前が飯田櫓、奥に大天守が見えます。

 でも熊本城の一番の売りは石垣ですね。

 この石垣をよじ登るのは難しそうだw

155  現在熊本市が進めている熊本城復元工事の

  完成予想図ですね。

  こうして見るとデカイ城だというのがよくわかる。

156  城の入口に立つ加藤清正像です。

 今に残る熊本城の大部分は彼によって作られたもの。

 この城の築城で名築城家と呼ばれるようになりました。

熊本県民の方でこのブログを見ている方はほとんどいないと思いますが

僕は加藤清正を軍人としては評価しますが

それ以上の評価はできないですね。

彼が天下人の器とはとても思えません。

歴史シミュレーション小説などで関羽になぞらえた本がありましたが

ある意味正鵠を得ているのかもしれません。

有能な軍人ではあっても天下を又にかけるような政治家ではありません。

戦術家ではあっても戦略家ではありません。

これは関羽とよく似ている部分ですね。

でも熊本城ははっきりいってとんでもない要塞ですよ。

これは彼が朝鮮半島での戦闘で学んだ経験が

ふんだんに盛り込まれたものと思われます。

土木の才を生かして治水や新田開発に邁進した、とありますが

それって過大な軍役を賄うためにどうしてもやらなければならないこと

だったということですね。

関ヶ原以降加藤家は52万石(実高73万石)にまでなりますが

家臣団にかかる人件費がなんと54万石!

なぜにそんな状態であったかというと

江戸幕府が開かれて以降もまだまだ軍事的緊張の状態が

続いていたということでしょう。

隣国には強敵島津家がいます。

朝鮮半島で肩を並べて戦っただけにその強兵ぶりは熟知していたはず。

また領内においても油断できない事情があったものと思われます。

豊臣政権によって没落させられた国人領主の残党や

小西家の旧家臣団などにも目を配らないといけなかったんでしょうしね。

そう考えると臨戦態勢ともいえる状況を維持しないといけなかったのは

ある意味仕方の無いことかもしれませんね

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史跡めぐり 大分・宮崎編

mixiで私の日記をご覧になっている方はご存知だと思いますが

金曜日・土曜日と大分~宮崎日向~熊本と出張で出てました。

宮崎の延岡で泊まったビジネスホテルがボロっちかったのと(笑)

デジカメ用のコードを持って出るのを忘れたので

更新ができませんでした。

移動の合間にちょっとした史跡めぐりをしました。

まあ普通の人が手を叩いて喜ぶような場所は

たぶん土曜日に訪れた熊本城くらいでしょうが・・・

まずは大分編ですが、

最初の商談が終わって宮崎北部の日向市へ移動する途中に

その時点ではかろうじて稼動していたカーナビに映っていたのが

145_1  戸次川古戦場の跡・・・

  正確には戸次川原合戦というらしいのですが

 142

 慰霊碑ですね。 

この近くに利光城という城があり、

その救援に向かった豊臣家の別働隊(長宗我部氏や十河氏ら四国勢)と

島津家久を大将とする軍勢が激突した戦いです。   

144_2  長宗我部ファンが泣いて哀しんだと言われる(?)

  長宗我部信親の墓です。

 責任を感じたのか秀吉が泣いて元親に謝ったとか。

将来を嘱望された若き嫡男を亡くした元親の気持ちはいかばかりか。。。

143  他にも十河一族の墓などがあったみたいなんですが

 どれがどうなのかわからなかったので

 ぜんぶひと通りお参りしてあとにしました。

戸次川合戦は耳川合戦や沖田畷合戦とならぶ島津家の

強さの象徴ともいえる戦いであり

これらの合戦で重要な役割を果たした島津家久は

兄の義弘と並んで島津家屈指の名将と謳われます。

ただ彼ら武闘派が勢いのままに前面に出過ぎて

その結果として総大将の義久の統制が利かなくなり

結局豊臣政権の討伐を受けて敗退しました。

東の小田原北条家もなんとなく似ているんですけどね。

まああそこは事実上の総大将(氏政)が武闘派でしたが。

                                                             

さてその後は宿を延岡にとりました。

延岡は水と緑そして旭化成の街です(笑)

宗兄弟が顔を歪めながら、そして谷口浩美が顔を傾けながら

この街を走ったんだな、と感慨深く・・・なんてことはありません(笑)

でも延岡は昔は文字通り城下町だったんですけどね

141  延岡城の江戸時代以降の歴代城主。

 だいたい5~7万石の大名です。

 城の規模も部相応なものであったと思います。

152  山の下、城址公園の入口近くの庭園。

 薄暗くて少々見にくいかもしれませんが・・・

                                                              

148  織豊時代以降の技術と思われる石垣。

 この地に移された高橋氏は元々九州の大名ですが

 朝鮮出兵で織豊大名の築城技術を身につけたのか。

150  天守台と呼ばれる高台から見た延岡市街

 ちなみにこの城は別名を県城と言いますが

 天守台に鐘台がありました。

151  石垣の石には鏨の痕が

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March 04, 2007

高取城CG再現

mixiの日本の城コミュニティで紹介されてましたが

奈良県の高取城をCGで完全再現したサイトがオープンしてます。

これも出来はすばらしく良いので興味のある方は

ご照覧くだされ。

高取城CG再現プロジェクト

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March 03, 2007

戦国期の江戸城

学研かどこかが出版してたと思うのですが

戦国時代の城を想像図とともに紹介していた本があったと思うのですが

ご存知な方いらっしゃいませんかね?

徳川入部前の江戸城がどのような縄張りだったか知りたいので・・・

家康の功績を否定するつもりはありませんが

江戸が家康が入る前は寂れた寒村だったというのは

ウソっぱちですからね!

品川はずっと港町として栄えていたし

北条氏も江戸を関東支配の拠点として重要視していたんですから

そんな街が寒村なわけがない。

徳川御用史家の悪しき影響なんでしょうなぁ

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February 12, 2007

戦国の終焉を読んで・・・

中公新書出版の戦国の終焉を読了しました。

先日もブログで紹介しましたが沼尻の合戦(1584年)の存在そのものを

全く知らなかったので大変勉強になりました。

実はこの本に加えて下山治久氏著の小田原合戦

さらに高志書院出版の上杉氏年表を併読している最中なのであります。

沼尻の合戦は今の栃木県の南部で行われた

北条家と佐竹・宇都宮などの北関東連合の合戦ですが

ちょうど同じ時期に

豊臣秀吉vs徳川家康・織田信雄の小牧長久手の合戦があって

この二つの合戦は微妙にリンクしております。

で、前から構想している謙信後の上杉家の戦記を進めていく上で

この二つの合戦は絶対に無視できないわけです。

ちなみに1584年の上杉家は何をしていたのかというと

4月に信濃(長野県)へ出兵して深志(現松本)の小笠原氏と戦い

5月下旬に越後へ帰国。

が、信濃は安定せず8月に再度信濃へ出馬。

10月に前田利家とともに佐々成政と戦うため越中へ出兵。

同26日には越中宮崎城を攻略。

軍を向けたのは信濃と越中だけですが

この間にも景勝に対して反抗する新発田重家の討伐を検討する書状を

越後下郡の諸将(色部氏や黒川氏など)へ送ったりしており

信濃の安定と越後国内の再統一に足をとられている状態でした。

信濃は徳川方の調略、とりわけ真田氏や小笠原氏あたりの暗躍が

あったものと思われます。

この二つの問題が早期に解決できていれば景勝の越山(関東への出兵)の

可能性も十分あったものと思われます。

前年の1583年に厩橋(現前橋)城が北条方のものとなり

さらに真田氏の所有する沼田城へも北条氏は兵を向けています。

北条氏直と徳川家康の娘督姫の婚儀はこの年(8月)に行われていますから

沼田城の問題で徳川氏と真田氏の間に隙間風が流れていた可能性大です。

真田家との関係をうまく調整できれば(事実1585年に真田家は上杉家に従属)

かつての謙信のように利根川あたりで北条家と一戦を交える

なんてこともあったかもしれません。

1584年は上野(群馬県)においては厩橋城は北条方でしたが

それまでずっと北条方であった太田の由良氏や同族の館林の長尾氏が

北関東連合に衣替えしていたので

ここに越後上杉氏が加われば北条家も相当苦戦することでしょう。

史上では沼尻の合戦後は北条家が国力の差と巧みな政治力で

佐竹氏らをふりまわし(佐竹与力の梶原氏が寝返ったりした)

さらに由良氏と長尾氏を再度屈服させるなど

沼尻以降かえって強大化しております。

(この辺の話は地図とかでビジュアル的に紹介できればいいんですが

そういう技術を私が持ち合わせていないだけに残念です。)

仮に景勝率いる上杉家が本格的に関東と関わると

もしかしたら東京の歴史も変わった可能性だってありますよ。

小田原合戦後に関東に封じられたのが徳川ではなく上杉ということも

十分考えられるからです。

これは根拠のない妄説などではなく実際にそんな意見が

豊臣秀吉の周囲にあったらしいのです。

                                                             

「八州が御静謐の上は、かの表の者共の過半を景勝につける」

と自分に対して仰せ出された。

この内容は富田知信・津田信勝・施薬院全宗も聞きおよんでいる

(天徳寺宝衍書状より)

                                                             

まあ結局この案は実現しなかったわけですが

景勝が史実以上に関東経略に関わっていれば

この案が実現した可能性は大いに高まりますね。

その場合徳川幕府は開かれたのかどうかとか

関ヶ原のような天下分け目の合戦が実現したかどうかは

何ともいえないところです。

まあこういった想像を働かせることも歴史の楽しさではあるんですが(笑)

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February 06, 2007

戦国の終焉

日曜日に「戦国の終焉」という文庫本を購入しました。

戦国末期の関東の争乱について少し勉強したかったので

買ってみたのですが

沼尻の合戦は全然知らなかったし

太田金山の由良一族が北条家を裏切って最終的には

所領を失っていることも全然知りませんでした。

この沼尻の合戦というのはなかなか興味を引きますね。

時期的に小牧・長久手の合戦と重なりますから

想像をたくましくすれば・・・ムフフフフフ(謎)

それと展開次第では上杉家が関東に転封された可能性もあったんですね。

もう少し読み下してからこのネタをUPしたいと思います

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July 29, 2006

信玄vs謙信

先日某国営放送局で川中島の合戦についてのアンケートをやってました。

トラマは正直どちらの意見にも合点がいきません。

というのはどちらの意見の要素も当てはまるし

当てはまらない部分もあるからです。

ただ通説の第4回川中島合戦にテレビ番組上でメスが

入った点は評価したいと思います。

実際に現地を周った人の意見などを総合すると

武田の迂回攻撃は成り立たないのではないか?

という説が強いですし

謙信が布陣した妻女山についても様々な説がありますし。

シミュレーション小説みたいな物語がそのまま史実になっちゃった

っていうことがどうも戦国の合戦に関しては多々ありそうです

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May 12, 2006

歴史群像新書の募集欄を読んで

小生が以前から書きたいと思っていた謙信亡き後の上杉家を

題材にした作品が優秀賞を獲得したようです。

ただ選考委員の意見から推測するに

ステレオタイプな上杉家評をそのままにした作品のような予感・・・

いや別にいいんだけどね。

ちなみにトラマのほうは・・・・なかなか進んでません

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April 08, 2006

鳥取遠征 鳥取城編

実は今日(8日)からお城祭りをやってるそうです。

もう一日ズレていればよかったかな(笑)

_206  大手門付近から撮影。

 桜が咲き乱れており、花見客がけっこういました

                                                             

_207  鳥取城は本来は後方の久松山に築かれた山城でした。

 それを近世に入って山麓まで規模を広げたのが今の姿

                                                             

_208  大手門の橋を渡る途中で撮影

 やっぱり桜が美しい

                                                             

_209  城内に明治に入ってつくられた仁風閣

 詳しくはリンクをご覧ください(手抜き)

                                                             

_210   城門です。

  保存されてたのか移築したものかどうか忘れました(^^;

                                                             

_211    石垣です。かなり高い石垣でした。

  鳥取藩のもう一つの城である米子城よりも石垣は高い

                                                             

_212   二の丸に作られた登り石垣です。

  朝鮮で築かれた倭城によく見られる作りですね。

                                                             

_213   二の丸(実質本丸)の御三階櫓の櫓台から見た鳥取市街

 山上の天守閣が焼けた後、事実上の天守閣でした

                                                             

_215  二の丸からさらに上の天球丸へ行く途中にある石垣

 積み方から判断して戦国時代の頃に近い(もっと前か)

                                                             

_214  二の丸に植えられた桜の木です。

 今頃はお城祭りでにぎわっていることでしょう

                                                             

_217  最後に吉川経家像です。

 あくまで個人的意見ですが彼は悲劇の人ではあったけど

 顕彰するほど鳥取に貢献したとは思えないんですが・・・

                                                             

格好が格好なので(スーツに革靴)山上の本丸は行きませんでした。

まあ行く時間も無かったのもありますけどね。 

中世城郭と近世城郭が微妙に組み合わさった城というべきでしょうか。

江戸時代は32万石の池田家の本拠とされただけあって

規模はかなり大きいです。

建っていた建物だけみれば支城の米子城のほうが5層の天守などがあって

立派なんですが石垣や堀、城下町の規模はやはり鳥取のほうが大きいですね。

米子城の大天守を久松山に移したらさぞかし見栄えのする

立派なものとなっていたでしょうね。

すぐに落雷で燃えちゃいそうですが(^^;

余談ですが私が好きな上杉家ももし会津に転封されなければ

春日山城も鳥取城のような石垣作りの近世城郭に変貌した可能性が

あったかもしれません。 

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April 03, 2006

戦国繚乱

去年文春文庫で文庫本で出た本ですが

戦国という時代で生きていく侍の悲劇を綴った三編が描かれております。

第一編が時流に翻弄された今の北九州から中津あたりを

地盤とした城井一族の悲劇。

第二編が戦国に生きる冷徹な大名として尊敬していた父を

様々な事情で殺さねばならない立場に

追い込まれた大友義鎮(のちの宗麟)

第三編が偉大なカリスマの死後の後継者争いの中で

戦国を生きる大将としてのつらさをかみしめながら

成長していった上杉景勝

戦国を扱った文庫本はたくさんありますが

最近読んだ中では一番面白い戦国歴史小説だと思います。

興味のある方はぜひご一読を

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March 31, 2006

城郭ファン必見サイト

このサイトは冗談抜きにしてスゴイと思う。

城好きでない方もぜひご覧になってください

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March 30, 2006

直江兼続って実は・・・

私はけっこうへそ曲がりな上杉ファンなのかもしれない

曰く「謙信は絶対天下は取れない」

曰く「上杉軍団って本当に日本屈指の精強な軍団か疑問」

曰く「謙信って本当に戦上手だったのか?」

などなど・・・・

で、最近脳裏から離れないのが

直江兼続って実はすっごいイヤミなヤツ

だったのではないかという疑念である。

私の歴史友達の三楽堂さんが運営されている戦国群像というサイトで

直江について紹介されているコラムがあるのだが

以前は直江の気宇壮大さ、気の強さを賞賛する気持ちがあったのだが

最近はどうもイヤミにしか見えないんですよ。

で、イヤミというと やっぱりこの人

で、この人が直江を演じたら数々のエピソードはきっとこうなるかと・・・

                                                             

その1 大阪城での伊達政宗との大判話

大坂城内の諸大名詰の間で、政宗が懐中から慶長大判を取り出す。

政宗「おのおのがた、ご覧になったことはあるまい?」

大名たちはみんな珍しがって回覧していき、

やがて末座にいる兼続の前に回ってきた。

その大判を兼続は扇子ですくって、

羽根突きみたいにポンポンはじきだしたというんだね。

政宗も心中は唖然ととしただろうけど、気配りの達人だから、

陪臣なので遠慮しているんだな、と思い、

政宗「山城(兼続の官名)、手にとって見るも苦しゅうないぞ」

兼続「情けない人たちだ、大名にもなってたかだか

   大判くらいで興奮するとは。

   私はあなた方とは志の大きさが違うのです。

   だから小人の手垢のついた代物をじかに

   触れるマネなどはしたくありません」

と言ってポーンと大判を投げ返す兼続。

そしてニヤリと笑みを浮かべながらその場を立ち去っていった・・・・

                                                  

その2 直江状(の勝手な解釈 (^^;))

「大老筆頭ともあろうあなたがずいぶん細かいことに

文句をつけるんですね?

なんとまあ器の小さい人だ。

まあ私はあなたがその程度の人間であることは

ずっと以前から知ってましたがね。

そんなあなたが天下の政を動かすとは

ずいぶんと寂しい世の中になったものです。

まあいいでしょう、こう見えても私は心の広い人間だ。

許しますよ、あなたの小心ぶりを(ニヤリ)

そういえば近々息子さんと同行で

こちら(会津)にいらっしゃるそうですね。

どうぞいらっしゃってくださいな、歓迎しますよ、そして

真の男の中の男とはどういうものかを

あなた方に見せつけてやりますよ(ニヤリ)」

                                                              

そりゃこんなイヤミなヤツがイヤミ満載の書状を書いたら

家康でなくても怒るわなァ(^^;

あ、あ、直江ファンの方怒らないで~(笑)

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October 04, 2005

海と陸と

網野善彦氏の著書を読んでみると

我々が想像していた以上に中世の人と物の流れの盛んであった

ことがわかります。

とりわけ移動手段で重要視されていたのが舟です。

道路が整備されまくった現在ではほとんどの河川に立派な橋が

作られてますけど近代以前は渡し船が主流ですね。

私の住む広島市にしても川に囲まれた街ですから

もちろん山陽道などの主要道路には橋はかかっていたようですが

車社会となる前まではやはり舟が主流でした。

何年か前に読んだ日経ビジネスでは関東大震災後の東京の復興案として

ヴェニスのような水郷都市にする、という案もあったとか。

今現在の東京の真夏の気温は猛烈なものがありますね。

特にビジネス街などはハンパじゃなかったです(汗)

そう考えるともし東京が水郷都市となっていたら

今よりもいくらか気温も低くなっていたかもしれませんね。

                                                             

さて船の利用というとどうしても切り離せないのが海賊。

海賊といっても悪いことをするわけではありませんよ(笑)

水先案内や荷物の運送、さらに護衛なども担っていました。

戦国時代にはいかほど海賊衆がいたんでしょうか?

思いつく限りを並べてみると

                                                            

若林水軍(大友氏)、松浦水軍(松浦氏)、村上水軍、毛利水軍衆(小早川も含む)

隠岐海賊衆、淡輪水軍、雑賀水軍、堅田水軍、伊勢水軍衆(九鬼も含めて)

今川水軍(のちの武田水軍)、北条水軍、里見水軍、安東水軍、南部海賊衆

                                                             

とりあえず私の思いつく限りの水軍ですけど

海に面した領国を持つ大名はほとんどが水軍衆と何らかの関係が

あったと考えるべきです。

上には書きませんでしたが本願寺や越後上杉氏なども

相当の規模の水軍を抱えていたことは間違いないようです。

でなければ石山本願寺は織田信長とあれほど長期間まで

戦争を続けることは不可能だったはずだし

上杉家にしても重臣の直江氏の苗字が地名で残っている(直江津)ところから

傘下に水軍衆を抱えていた可能性がかなり高いです。

ちなみに直江氏は家来なのに会津時代は30万石もの禄高だった

などという説があるくらい上杉家中では飛び抜けた存在です。

越後にいた時代から他の重臣や豪族で1万石を越える禄高を

持っていたのはほとんどいない(信濃の須田氏が1万2千石)なのに

直江兼続が一人だけ5万石以上だったんですから。

この場合の禄高は単に米の生産量だけで換算したものではなく

港湾収入なども当然含まれてます。

それだけの経済力を生み出したのはやはり水軍を握っていたからでしょう。

同じ頃の毛利家において吉川氏よりも小早川氏の存在が重宝されたのも

同じ理由ではないかと思います。

                                                             

そういえば天下を統一した信長や秀吉・家康はみな海に面した国の生まれですね。

関ヶ原や川中島にばかり目を向けるだけでなく

こういった海や川を利用した交流などに着目すると

また違った歴史の楽しみ方ができるかもしれませんね

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August 31, 2005

石田三成は名将か?

石田三成、歴史の授業でどのように教えられているのでしょうか?

おそらく良いイメージはなく、徳川家康の引き立て役のような感じで

歴史の先生は話されているのではないでしょうか?

今日放送のNHKの「そのとき歴史が動いた」で石田三成を取り上げるそうです。

新聞の番組紹介欄で「家康が最も恐れた男」という具合に書かれてました。

三成会にも入っている手前あまり三成のことを悪く言いたくはありませんが

「名将」という基準が単に「合戦の駆け引きが上手い」ということであれば

三成は残念ながら名将とはいえないと思います。

本人もそれを自覚していたようで島左近や蒲生郷舎といった

いわゆる戦巧者を家臣に召抱えております。

ただし三成戦下手論の際によく引き合いに出される忍城攻めについては

江戸時代に描かれた軍記モノではなく当時の資料を基にした反論

よく読めば三成の苦悩がしのばれることと思います。

三成の本領はむしろそういった戦術ではなく戦略レベルでの

企画力であり実行力です。

おそらく放送で紹介があるでしょうが関ヶ原へ向かうまでの過程において

いかにして徳川家を追い詰めるのか、そういった部分に目を向けて欲しいです。

裸一貫ではありませんが石高において隔絶の間のある徳川家に対して

三成がいかなる手を打ったのか、どういう思いで決断を下したのか?

そういったところを見て欲しいですね。

                                                             

余談ですが三成の姿を時々三国志の大軍師諸葛孔明とダブらせて

見てしまうときがあります。

もちろん三国志演義でのバケモノじみた天才孔明ではなく

史実上での政治家諸葛亮の姿とです。

異論反論いっぱいあると思いますが、私は史実の孔明は

決して名将ではなかったと思います。

国力の差もあったから困難なのはわかっていますが

結果的に北伐を成功させることができませんでした。

ですが蜀の国を彼の死後30年以上も保つことができたのは

孔明が作り上げた体制が機能していた、という面もあったのでしょう。

三成が中心になっておこなった検地や刀狩り、さらに各地の大名に

影響を与えた領国経営手法などは

むしろ江戸時代になってから幕府の体制を整えるのに

大いに利用されたと見るべきです。

彼は偉大な政治家であり有能な官僚だったのです

孔明の名前が出たついでに孔明が成功できなかった北伐を

見事なまでに成功させた人物がおります。

陳慶之という人物なのですが、万にも満たない兵数で

連戦連勝だった、という彼こそがまさに名将ですね。

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May 09, 2005

上杉景勝に見る二代目の重要性

どこの組織でも二代目三代目の人材に苦労があるようです。
例えば今やっている大河ドラマですが平家も源氏も二代目以降に
人物を得られているとは言い難いです。
戦国時代も同様でして徳川家が天下の覇者となったのは
二代目へのバトンタッチがうまくいったのと引き継いだ人物(秀忠)が
初代(家康)とは違った個性で組織を引っ張っていくだけの器量を
持ち合わせていたことも要因でしょう。
初代と言われる人物からわずか数代で滅亡した大名家は
①二代目に人を得なかったか(豊臣・今川・大友・竜造寺など)
②状況が切迫していて引継ぎがうまくいかなかった(織田・武田・長曾我部など)
のいずれかでしょう(織田家は二代目も初代と一緒に死んでしまったからねェ)

私が題材にしようとしている戦国期の上杉家も
上記の大名家と似たようなものでした。
謙信の後を引き継いだのは景勝、紆余転変の後に米沢藩初代藩主となります。
彼は二代目の地位を保証されて継いだ人物ではありません。
文字通り「勝ち取った」二代目です。
彼の生涯をわかりやすく紹介しているのはこちら
その経緯(御館の乱)については触れませんが
武門の家上杉家の家風を作ったのは間違いなく景勝です。
この人は先代謙信のような派手な経歴はありませんが
内政面、特に家臣団の統率力は謙信以上と言っていいでしょう。
謙信はしばしば家臣の反乱に悩まされますが
景勝時代で家臣の反乱は新発田重家の乱(1581~87年)くらいです。
もっともこの新発田の乱のおかげで上杉家は天下に雄飛する機会を
逃したともいえるのですが。
もちろん越後から会津・米沢への国替えなどの外部要因も
ありますので単純に謙信時代と比較はできないですけどね。
関ヶ原の一件で石高を減らしてしまったという失点はありますが
大阪の陣における上杉家の戦闘ぶりから
徳川将軍家をはじめとして
「謙信公以来の弓矢の勢い、未だ衰えず」
と称えたくらいですから上杉家の家名を残すということと
謙信の家の武名と誇りを残すという二つの命題を
生涯かけて守り抜いた人物といえるかもしれません。

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May 07, 2005

仮名 真北越戦記 執筆進まず(爆)  

たまには歴史ネタを書こう(笑)
3日にネタの仕入れと暇つぶしに図書館へ。
図説中世の越後、新潟市史などを片手に資料を漁っていた。
またつい先日大和ミュージアムで撮影した亀甲船の画像を見ながら
思ったのは、想像以上に中世の人たちの海上交通の利用度の高さである。
特に日本海交通は江戸時代になる前までは
太平洋側以上に盛んであったということである。
で、今進めている(?)企画ものだがこの日本海流通がカギとなるのだ。
戦国の水軍というと瀬戸内の村上水軍や伊勢湾の九鬼水軍が有名どころだが
日本海の水軍(海賊衆)はあまり聞かないですね。
鳥取城の篭城戦に加わっていた奈佐日本乃助くらいしか思い浮かばない。
彼は確か隠岐の海賊衆だったと記憶しているのだが・・・
陸戦国の武田でさえも水軍がいたのに(寄せ集めみたいなもんだが^^;)
上杉に水軍がいないはずがない、というところからスタートしました。
実はちゃーんとあるんですねェ。
謙信は二度上洛してますがそのうち一度は海路を利用しております。
ただこのときは本願寺の海賊衆も協力していたようです。
その後本願寺とは敵対関係になるので本願寺傘下の海賊衆の協力は
得られず、また謙信も関東方面での泥沼の戦いにはまり込んでしまいます。
ただ越後国内での合戦(本庄繁長の乱)で新潟へ兵を集めた、と
史書にあるので目立ってませんが活躍はしていたのでしょう。
謙信の後を継いだ景勝のときに海賊衆はいかなる働きをしたかと言えば

1.本能寺の変の直前に能登へ長景連を送り込み織田家北陸方面軍の
後方撹乱をはかった(前田利家・長連竜の働きであっさり沈静化)

2.佐渡出兵の際に1千隻もの船を動員した。

3.朝鮮出兵(?)

3を?としたのはまだ資料で確認していないからです。
ただ直江兼続配下の与板衆の立屋(立岩)喜兵衛というのがいますが
彼が船団を率いて米の売買などを行ったり物資の搬送を
やっていたという記載はあったので
何らかの活動はおこなっていたんでしょう。
何よりも越後の国事態が大河川だらけの国ですから船がないと
荷物の運搬などができません。
ところが戦記書などを見てもあまり記述がないのは・・・
もしかしたら景勝や兼続が上田衆(今の魚沼地方)出身なのも
影響あるのかもしれません。
この辺はまた改めて記述したいと思います。

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May 06, 2005

神辺・尾道遠征その2

今度は神辺史跡めぐり編です(笑)
フジグラン神辺をあとにしたあと神辺駅近くへ移動。
神辺城を見に行ったのであります。
神辺城の詳細についてはこちら

少々気温が高かったのと運動不足がモロに出まして
正直かなりしんどかったです。
ただ整備が行き届いていたので普通に歩くのには問題ないですね。
資料館にも行って盛時の神辺城の絵図を拝見しましたが
かなりの規模の城郭だったようです。
散歩がてらに黄葉山(神辺城跡)へ登るのもいいかもしれません。

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April 15, 2005

山陰遠征 戦国オタ編(^^;

毎回出張するたびに必ず歴史的名所を見に行ってしまう。
今回は倉吉でそれをやってしまいました。
倉吉というと名前の通り土蔵がいっぱいあって風情のある町なんだけど
そんなのに目もくれず打吹山へまっしぐらでありました。
この打吹山には中世の山名一族がこの地方を治めていたころからの
古い城跡があって、前に倉吉へ行った時に登頂するつもりだったんだけど
その後鳥取市へ行くことになっていたために断念。
で、今回行ったわけです。
天候もいいし藪や蚊もいないいい時期に山城を登れたんだなぁ、と思いました。

まずは打吹公園の桜です。
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その後さっそく登頂、道も整備されていているので気軽に登れます。
もっともワイシャツ・ネクタイ・革靴で登る輩などまずいないだろうが(^^;

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途中見晴らしの良い所で撮った倉吉市街です。
この打吹山と天神川という川をはさんで向かいの山には田内城という城がありました。

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これは山頂近くに転がっていた石です。
明らかに加工したあとがあります。
この石を見るだけでも石垣を組んだ本格的な城であったことが想像されます。

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山頂の天守台跡と思われる部分です。
ここにも石垣の跡がありますね。
伝承では倉吉城(打吹山城のこと)の天守閣が米子に移されたという説もありますから
2層ないしは3層クラスの建築物が存在した可能性があります。


毛利家と豊臣家との境界線に近い地域にあったことから
この地域を支配していた南条氏が豊臣家の支援で近世城郭に作りかえた可能性が
高いように思えます。
南条氏の本拠は隣の湯梨浜町にあります羽衣石城ですが
倉吉がかつて国府および守護所があった所でもあるので打吹山城を拠点とした可能性は
非常に高いものと思われます。
豊臣家にとって毛利家に対する最前線でもあったので
大々的に築城支援をおこなって石垣作りの本格的な城にしたのではないでしょうか?
江戸幕府の一国一城制により破却されましたが、利用もできないくらいまで
破城されたのは農民一揆が起きた際に利用されるのを防ぐためでしょう。
似たような理由で佐賀の名護屋城跡などがありますから。

しかし帰るのはマジで大変だった(汗)

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April 05, 2005

今現在研究(?)していること

実は小学生のころから歴史、というか戦国ものが大好きで
某放送局の大河ドラマは毎週欠かさず見ておりました。
そこからはじまってゲームにはまったり、そっち系のサイトに出入りしたりしております。
で、最近はじめたのが自分でシミュレーション小説を書いてみよう、ということ。
いい作品ができれば一度ここに投稿してみようと思う。

本屋へ行くたびにそういう本が置いてあるコーナーで立ち読みするのだが
はっきりいって著者が勉強不足なものが多い。
歴史事実に色々と想像力を膨らませるのはいいけれども
せめてその時代の庶民の生活習慣、地理地形の変化くらいはよく調べてほしいものである。
今トラマが題材にしようとしているのは越後(今の新潟県)の大名上杉家。
上杉謙信という歴史の教科書に出てきた超メジャーな人物ではなく
その後継者と家臣団について書こうと考えている。
で、まずその当時の新潟県というのがどういう状況であったのかということから
調べているのだが、これがまた今現在とエライ違うのだ。
今でこそ魚沼産などのおいしい米の産地として通っている新潟県も
かつてはあまりにも河川が多いことから水害にたびたび悩まされ、
人もまともに住める地域は限られていたのだ。
思い出して欲しい、昨年の夏の新潟県の集中豪雨を(その後の地震で忘れられた感があるが)。
ひとたび大雨が降って堤防が決壊すればたちまち水没してしまったではないか。
土木技術の進歩が進んだ今現在でさえもこういったことは起きるのだ。
中世のころなど言わずもがなであろう。
こういうことを知らずに歴史雑誌などに著名な作家が「豊かな越後」などと平気に書いてるのを見ると

「こいつら全然勉強などせずに適当に書いてやがる!」

などと憤りを感じてしまうのだ。
とか言ってて自分がいい作品を書けるという保障はまるで無いのだが・・・(^^;

戦国期の新潟県の地形などを調べたいと言う方はこちらが参考になると思います。
さあがんばるぞー、って仕事も頑張れよ>自分

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