July 04, 2008

本来は喜ぶべきなんだろうが

来年の大河へ向けて色々と直江関連グッズを発売しているようですが

なんかそういう記事を見ると妙に冷めてしまうというか

ムカつくというか、腹立たしいというか・・・・

なんでなんでしょうね?

いや、彼が世間に認知されることについては

喜ばしいことではあると思っていないわけじゃないのですが・・・

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May 19, 2008

上条政繁の扱い

戦国上杉家に興味があってトラマのブログの戦国関連記事を

何度か目を通している方だけお読みください。

                                                             

密かに書き進めようとしている文物で扱いに厄介な武将が何人かいる。

その中の筆頭が上条政繁。

彼をどう生かそうか、否、どこでお亡くなりになっていただくか(笑)

を思案しているのである。

上杉景勝と正室お菊の方との間には

ついに世継ぎが生まれなかった(後継者である定勝は側室の子)

つうわけで一族から養子を取らないといけない立場なのであるが

数少ない血縁者が一門衆である上条政繁の息子たち。

政繁が景勝の姉と結婚したのか、妹と結婚したのか

いささか不明な点があるのだが

年齢的に考えて景勝の姉ではないかと私は推測しているので

姉婿ということにする。

で、三人の息子も景勝の姉との間の子供ということにする。

問題なのは上条政繁が歴史上では上杉家を出奔していることなのだ

上条の出奔の理由は諸説あって、どれもうなずけるものばかりなのだが

そうなると三人の子供の扱いはどうなる?って感じなんですわ。

で、トラマが考えたのは

上条政繁さんにどこかで戦死していただく

ってことなんですけど。。。

いやそのほうが景勝側にとってはメリットが大きいと思うんですよ。

謙信が景勝を引き取った史実を思い浮かべていただければ

トラマが何を言いたいのかわかると思います。

政繁が戦死したとすると後に残された姉と子供たちは当然景勝が引き取ります。

そうなると彼らはいずれ景勝の養子となるわけでして

まず後継者ができる(しかもスペアが二人)。

それから一門衆の再編ができる(政繁と景勝は円滑な関係とは言い難かった)。

まあ毛利三兄弟みたいに優秀であればなおいいのですが

そういう話は聞いたことがないので(笑)

ただ上記の謙信が景勝を引き取ったときとは異なり

政繁の死が息子たちに疑念を抱かせるようなものではあってはならない

ここがミソだと思うんです。

当初は政繁が北信濃の郡代をやっているときに

真田の調略にひっかかった国衆に殺されるって展開を考えてたんですが

その後のストーリー展開上で真田はキーパーソンになるので

いらぬ疑いを真田(と景勝&兼続)に抱かせるのはマズイって思って

じゃあどのシチュエーションがいいのか考えたんですが・・・

景勝が新発田重家に破れる法正橋の合戦で

景勝を逃がすために犠牲になって・・・・

って展開のほうがいいのかなァ。。。

佐々成政や徳川家康との戦いで戦死っていうのは

あまりイメージが沸いてこないんでねぇ。

うーん・・・・・

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April 16, 2008

柿崎さん

最近超時空要塞マクロス(ただし最初のヤツね)にハマっているせいか

どうも柿崎っていうのがいろんな意味で気になる。

マクロスに登場する柿崎さんははっきり言ってヘタレ

主人公の一条輝や同僚のマックスのフォローが無ければ

早々に撃墜されてたでしょうねぇ。

体格は良くて勇猛なのはわかるんだけどねぇ・・・・

で、戦国好きのトラマが気になる柿崎さんといえば

去年の大河ドラマでも登場した柿崎景家さん

戦国シミュレーション系のゲームでは上杉家臣団の中で一・二を争う強さ。

ところがゲームだと合戦以外は使えないのよねぇ。

で、ふと思ったんだけどこのゲームでの合戦バカとしか思えない

柿崎景家のキャラ設定にマクロスの柿崎さんの存在も影響したんじゃね?

光栄の信長の野望シリーズが発売されたのが1983年

一方マクロスの放映が1982年から1983年にかけて。

うーん・・・・まさかとは思うけどねぇ。。。

勇猛なところは似てるけど方や越後一の猛将、

方やマクロス随一の愛すべきヘタレキャラ(笑)

でも柿崎景家って肖像画は残っていないから

あっちの柿崎さんをちょっとアレンジして・・・・無いわ(爆)

実際の柿崎景家さんは実務面でもかなり有能だったらしいんだけど

なんでこんな合戦バカの設定になったのか悩むわ

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April 12, 2008

景勝・兼続主従の夢の跡?

Youtubeで会津・神指城完成予想図をUPされている方がいました。

ご存じない方のために簡単に説明すると

神指城とは上杉景勝が1600年に築きはじめた城で

この城の築城をネタに徳川家康は上杉家へイチャモンをつけた事が

後の関ヶ原の合戦へとつながっていきます。

それだけいわくつきの城だったのですが

未完成のうちに上杉家が戦争状態に入ってしまい工事は中断。

結局米沢へ転封されてしまったためにそのまま廃城となりました。

石垣などの資材は会津若松城の増改築に転用されたようです。

戦国関連の雑誌などを見ると徳川軍をおびき寄せのための城と

書かれてた記事が多かったようですが

実地を検分したり発掘調査などの結果から

上杉家は本気で本拠地を会津若松城から移そうとしていたことが

立証されてきているような気がします。

また幕末の奥羽戦争で会津若松城がすぐ近くの小田山から

砲撃をうけて大損害を出したことから

上杉家が若松城の弱点(山が近く、そこから砲撃されると脆い)

を認識していたという伝聞も正しかったようですね。

紹介した動画を単なる妄想と決め付けるのは簡単ですが

(本丸に御殿が無いのと天守閣の破風が直線的すぎる点が残念)

完成していればこの動画に近い規模の城となっていた可能性は高いと思います。

まあ来年の大河ドラマではどう扱うんでしょうね。

工事中でなーんも画が出ないうちに終わっちゃいそうな気がしますが

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March 02, 2008

吉川元春館跡

朝広島駅まで父を送った後にこのまま帰るのが惜しかったので

一気に北広島町まで遠征してきました。

目的地は旧豊平町にある吉川元春館跡こちらが詳しい)。

実は大河ドラマで毛利元就をやったときに

放送終了して数ヵ月後に訪れたことがあったんですが

そのときは歴史博物館のような建物は無く

まだ発掘中だったんです。

で、先日某コミュニティFMで昨年8月に「戦国の庭 歴史館」という

展示施設がオープンした、という話を聞いて早速訪ねました。

県北地区は雪はどうなのかな、と気になってましたが

路面上はほぼ融けており問題なく行き着くことができました。

今回は館跡と万徳院跡を訪ねましたが

「何をやっとんじゃ!火の山城まで行かにゃ

本物のモトハラーじゃねぇぞ!」

などと某熱狂的吉川元春マニアに怒られそうですが(^^;

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 吉川元春が1983年に隠居後の住居として建設

                                                      

                                                   

                                                     

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  正門です。

                                                        

                                                         

                                                        

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 復元された台所。

                                                              

                                                          

                                                           

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  同じく復元された庭園

                                                          

                                                         

                                                         

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  吉川元春墓所(息子の元長の墓所もある)

                                                           

                                                            

                                                          

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 昨年8月にオープンした展示館

                                                            

                                                            

                                                           

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 吉川元春館復元模型(実はこれが見たかった!)

                                                          

                                                           

                                                            

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 近くにある万徳院(吉川元長が作った寺院)跡の庭園

                                                              

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December 24, 2007

武田・上杉書簡について

先日長野で山田邦明氏の武田・上杉氏の書簡に関する講演があったそうですが

ご覧になった方いらっしゃったらコメント欄で解説いただけないでしょうか?

個人的にすごい興味のある演題なので

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December 22, 2007

再来年の大河ドラマの話

主人公直江兼続役が決まったようだが

その主君たる上杉景勝や後半出てくるであろう前田慶次を

誰が演じるか?に興味がある。

景勝はおそろしいほど寡黙だったらしいし

相方の妻夫木くんがなんとなく癒し系キャラになりそうなんで

まあこの際アレだ

沢尻エリカにやらせてみたらどうかね

後藤久美子が北畠顕家を演じたことがあったから

Gackt謙信を押し切った犬HKならできるだろw

例えば前半の山場でもある御館の乱の一場面

                                                           

謙信危篤という知らせを上条や斉藤といった重臣から受け

実城(本丸)へと急ぐ景勝一行。

そのとき門番が景勝の進入を抑えようと立ちふさがった。

門番 「これは御中城様(景勝)。実城へ一体何用で参られるのか?」

景勝 「御館様(謙信)の見舞いに行くだけですが何か?・・・」

門番 「・・・・・・」

尻ごむ門番を無視して実城へやってきた景勝。

そんな景勝を重臣の斉藤朝信が出迎えた。

朝信 「御中城様、こたびのご決断朝信感服いたしました!」

景勝 「別に・・・・・」

朝信 「・・・・・・」

                                                           

どう?こんな景勝見たいと思わないか?>思いません

                                                              

前田慶次は浅倉威しかトラマには思いつきません(^^;

つうか浅倉みたいに暴れる慶次が見てみたい。

「出羽守(最上義光)!俺と戦え!俺をもっと楽しませろ!」

と突進していく蛇皮の陣羽織に茶髪の前田慶次(^^;;;

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December 19, 2007

もし猪木が・・・

アントニオ猪木が平安末期に生まれていたら

「みなさーん!源氏ですかー!」

「源氏であれば幕府が開ける!」

「イーチ!ニー!サン!夜討ちダー!」

す、すいませんm(__)m

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October 21, 2007

大熊さん、謀反

今日NHKの大河ドラマ風林火山で

長尾景虎(後の上杉謙信)の家臣である大熊という武将が謀反を起こします。

彼が謀反を起こす理由はいろいろあるのですが

もしかしたら合戦のときに

「オイ!柿崎!柿崎!柿崎!」

とか

「直江!上がれ!上がれって!」

とか

「サンキュー!宇佐美!」

などと大声で叫ぶもんだから

同僚からうざがられていたのかもしれませんね(^^;;;

ええっと元ネタはこちらこちらで確認してねw

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September 25, 2007

結局謙信は後継者を決めてたのか?

歴史群像の御館の乱の記事を読んで以前くだらない

反論をしたのだがどうにもスッキリしない。

謙信が景虎を後継者にしようとしていたのは

状況証拠からいって明らかだ、と言い切っちゃうのはどうかと・・・

確かに弾正少弼の件で景勝が自称した可能性があるのは否定はできんが

当の景虎が葦名家への手紙で景勝のことを少弼と記入しているのは

どう説明したらよいのか?

弾正少弼に景勝が任じられたとき祝いの席が設けられたという話もある。

何から何まで景勝が簒奪した、というのもどうかと思う。

というか

謙信はなーんも決めてなかったのが真相じゃね?

正確には決められなかったんじゃないかと・・・

俺は景勝が後継者の地位を勝ち取ったという風に見ている。

景勝と景虎はほぼ同格(やや後者が上だが)だったんじゃないかと思うのだ。

もちろんそれぞれの家格を比べれば確かに景虎のほうが上だ。

だがどちらかを後継者に擬していたのであれば

大々的に宣伝するのが普通だよね?

上記の歴史群像でもそれらしい事例(景虎が寺社へ礼状を発していた)を

取り上げいたし、御館の乱のときに居多神社などが景虎に味方したとか

何よりも軍役が課せられていなかったから

というのもあるんだが

まともな譜代家臣団を持たないで大名家なんてやってられるのか?

それってこじつけに近い感じが俺はするんだがな。

それに景虎が合戦に出た、って話を聞いたことが無い。

景勝は謙信の名代で何度か合戦には出ている。

これだけでも景勝が十分高い地位にいた証拠じゃないのか?

                                                           

景勝=越後国主

景虎=関東管領

                                                            

これが機能するかどうかは別問題としても

結局謙信が考えていたのはこの線に落ち着くと思うんだがな。

元々上杉家は関東管領家と越後家って別だったわけだしねぇ。

っていうか

景勝のほうが勝ったわけだから器量が上だった

これが結論っしょw

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September 22, 2007

西田尚美さんの妊娠のニュースを見て

男の子が生まれたら

名前は景勝

にして欲しいと思った俺は上杉バカ(^^;

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August 31, 2007

ガクト謙信がハッスルしている件について

今年の夏、上越市で行なわれた謙信祭りはかなり盛り上がった模様。

特に大河ドラマ風林火山で何気にハマっているんじゃないかと言われている

ガクト氏が謙信になり切って出演したそうで

しかもかなりかっこよかったらしい

俺も時間と予算があれば見に行きたかった。

謙信はある部分で狂的な面もあるので

そういうところをガクトが引き出してくれれば

謙信を演じた役者の中でかなり印象に残る演者となるかもしれない。

ってしばらく大河では出番は無さそうだけど。

ところで再来年の謙信祭りでは兼続と景勝は出る予定なのかね?

彼らが登場するというのは歴史に詳しいものからすると

いささか納得しがたい、というか許せないところもあるんじゃないのかな。

なんせ上杉家をクーデターで乗っ取っちゃったんだから。

でも俺はそんな景勝が好きだよw

                                                  

【追記】

ガクト氏の謙信公祭りでの様子が動画でUPされてましたね。

ぷれっそさん紹介いただき感謝です

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June 25, 2007

現代に生きる直江さん(笑)

直江でGoogleで検索してみたら金沢の醤油屋さんのサイトに出くわしました。

こちらの直江さんは私のよく知る直江さんとは全く関係ないようですが

再来年になったら

「え!あなたあの直江兼続と何か関係でも?」

などと質問されまくりなんでしょうなァ(笑)

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May 26, 2007

歴群『御館の乱』の返事が来ました

細かい記述の公開はこちらでは避けますが

概ね納得いくものであったと思います。

まあ1574から謙信が亡くなるまでの上杉家が

一致団結していたかどうかについては疑問が残るところですが

具体的な事象や資料が無い限りは妄想の域を出ないわけなので。

小説の題材にするには面白いかもしれませんね。

『上杉謙信殺人事件』

とか(笑)

いずれにしても

へそ曲がりな歴史好きのトラマに対して

親切丁寧かつ冷静に対応していただいた歴群スタッフに

改めて御礼を申し上げます。

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March 18, 2007

今月の歴史群像特集記事「御館の乱」

いつも戦国関係でお世話になっている三楽さんの掲示板

微妙に盛り上がっているのが

歴史群像で特集で組まれている御館の乱のことです。

御館の乱とは今現在放映中の大河ドラマ風林火山の副主人公格の

武田信玄のライバルである上杉謙信が急病で亡くなって

その後継者をめぐって上杉家が二分されて争った戦いのことを言います。

謙信は独身だったため当然子供がおらず後継者は養子で争われたのです。

一人が甥にあたる景勝、もう一人が小田原北条家出身の景虎。

実はもう一人養子がいますが彼は上杉家の別家を継いでますので除外。

で、結局後継者争いに勝ったのは前者なのですが

このことを特集記事として詳細に福田誠さんという方が書いています。

いろいろ資料を集めて通説に対する反論を交えながら

御館の乱についてまとめているのですが

ひとつ気になったのが

景勝と景虎の春日山城(上杉家の本拠地)での居住地の位置です。

図説中世の越後など私が手元に持っている春日山城の図を見ると

どう見ても景勝屋敷のほうが景虎屋敷よりも高い位置にあるようにしか・・・

で、歴群のイラストと見比べてみると・・・

景勝屋敷の場所が違うやん!

そうなんです歴群のほうが間違って記載しているんです。

というか筆者の福田さんはまず景勝のクーデターありきで

文章を書いているんじゃないのか?

そりゃ通説をひっくり返したい記事を書きたい気持ちはわかるけど

事実を捻じ曲げてまで書いたらマズイだろ?

そんな疑いを今回の特集記事に持ったのですが

学研に送っちゃりましょうか?ツッコミメールを(笑)

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史跡めぐり 熊本編

さて翌土曜日は延岡から高千穂へ抜け

阿蘇山地を横断して熊本市へ。

153  走行中だったのであまり写真は撮れませんでしたが

  雄大な自然の風景を楽しみながら一路熊本へ

                                                             

途中御船町というところを通ったときに

甲斐氏が本拠としていた御船城とおぼしき丘を見つけたので

そこへ寄りたかったのですが時間の都合で断念。

熊本市内で商談を済ませた後にせっかくなので熊本城へ

前にも行ったことがあるので今回は中には入りませんでした。

158  手前が飯田櫓、奥に大天守が見えます。

 でも熊本城の一番の売りは石垣ですね。

 この石垣をよじ登るのは難しそうだw

155  現在熊本市が進めている熊本城復元工事の

  完成予想図ですね。

  こうして見るとデカイ城だというのがよくわかる。

156  城の入口に立つ加藤清正像です。

 今に残る熊本城の大部分は彼によって作られたもの。

 この城の築城で名築城家と呼ばれるようになりました。

熊本県民の方でこのブログを見ている方はほとんどいないと思いますが

僕は加藤清正を軍人としては評価しますが

それ以上の評価はできないですね。

彼が天下人の器とはとても思えません。

歴史シミュレーション小説などで関羽になぞらえた本がありましたが

ある意味正鵠を得ているのかもしれません。

有能な軍人ではあっても天下を又にかけるような政治家ではありません。

戦術家ではあっても戦略家ではありません。

これは関羽とよく似ている部分ですね。

でも熊本城ははっきりいってとんでもない要塞ですよ。

これは彼が朝鮮半島での戦闘で学んだ経験が

ふんだんに盛り込まれたものと思われます。

土木の才を生かして治水や新田開発に邁進した、とありますが

それって過大な軍役を賄うためにどうしてもやらなければならないこと

だったということですね。

関ヶ原以降加藤家は52万石(実高73万石)にまでなりますが

家臣団にかかる人件費がなんと54万石!

なぜにそんな状態であったかというと

江戸幕府が開かれて以降もまだまだ軍事的緊張の状態が

続いていたということでしょう。

隣国には強敵島津家がいます。

朝鮮半島で肩を並べて戦っただけにその強兵ぶりは熟知していたはず。

また領内においても油断できない事情があったものと思われます。

豊臣政権によって没落させられた国人領主の残党や

小西家の旧家臣団などにも目を配らないといけなかったんでしょうしね。

そう考えると臨戦態勢ともいえる状況を維持しないといけなかったのは

ある意味仕方の無いことかもしれませんね

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史跡めぐり 大分・宮崎編

mixiで私の日記をご覧になっている方はご存知だと思いますが

金曜日・土曜日と大分~宮崎日向~熊本と出張で出てました。

宮崎の延岡で泊まったビジネスホテルがボロっちかったのと(笑)

デジカメ用のコードを持って出るのを忘れたので

更新ができませんでした。

移動の合間にちょっとした史跡めぐりをしました。

まあ普通の人が手を叩いて喜ぶような場所は

たぶん土曜日に訪れた熊本城くらいでしょうが・・・

まずは大分編ですが、

最初の商談が終わって宮崎北部の日向市へ移動する途中に

その時点ではかろうじて稼動していたカーナビに映っていたのが

145_1  戸次川古戦場の跡・・・

  正確には戸次川原合戦というらしいのですが

 142

 慰霊碑ですね。 

この近くに利光城という城があり、

その救援に向かった豊臣家の別働隊(長宗我部氏や十河氏ら四国勢)と

島津家久を大将とする軍勢が激突した戦いです。   

144_2  長宗我部ファンが泣いて哀しんだと言われる(?)

  長宗我部信親の墓です。

 責任を感じたのか秀吉が泣いて元親に謝ったとか。

将来を嘱望された若き嫡男を亡くした元親の気持ちはいかばかりか。。。

143  他にも十河一族の墓などがあったみたいなんですが

 どれがどうなのかわからなかったので

 ぜんぶひと通りお参りしてあとにしました。

戸次川合戦は耳川合戦や沖田畷合戦とならぶ島津家の

強さの象徴ともいえる戦いであり

これらの合戦で重要な役割を果たした島津家久は

兄の義弘と並んで島津家屈指の名将と謳われます。

ただ彼ら武闘派が勢いのままに前面に出過ぎて

その結果として総大将の義久の統制が利かなくなり

結局豊臣政権の討伐を受けて敗退しました。

東の小田原北条家もなんとなく似ているんですけどね。

まああそこは事実上の総大将(氏政)が武闘派でしたが。

                                                             

さてその後は宿を延岡にとりました。

延岡は水と緑そして旭化成の街です(笑)

宗兄弟が顔を歪めながら、そして谷口浩美が顔を傾けながら

この街を走ったんだな、と感慨深く・・・なんてことはありません(笑)

でも延岡は昔は文字通り城下町だったんですけどね

141  延岡城の江戸時代以降の歴代城主。

 だいたい5~7万石の大名です。

 城の規模も部相応なものであったと思います。

152  山の下、城址公園の入口近くの庭園。

 薄暗くて少々見にくいかもしれませんが・・・

                                                              

148  織豊時代以降の技術と思われる石垣。

 この地に移された高橋氏は元々九州の大名ですが

 朝鮮出兵で織豊大名の築城技術を身につけたのか。

150  天守台と呼ばれる高台から見た延岡市街

 ちなみにこの城は別名を県城と言いますが

 天守台に鐘台がありました。

151  石垣の石には鏨の痕が

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March 04, 2007

高取城CG再現

mixiの日本の城コミュニティで紹介されてましたが

奈良県の高取城をCGで完全再現したサイトがオープンしてます。

これも出来はすばらしく良いので興味のある方は

ご照覧くだされ。

高取城CG再現プロジェクト

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March 03, 2007

戦国期の江戸城

学研かどこかが出版してたと思うのですが

戦国時代の城を想像図とともに紹介していた本があったと思うのですが

ご存知な方いらっしゃいませんかね?

徳川入部前の江戸城がどのような縄張りだったか知りたいので・・・

家康の功績を否定するつもりはありませんが

江戸が家康が入る前は寂れた寒村だったというのは

ウソっぱちですからね!

品川はずっと港町として栄えていたし

北条氏も江戸を関東支配の拠点として重要視していたんですから

そんな街が寒村なわけがない。

徳川御用史家の悪しき影響なんでしょうなぁ

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February 12, 2007

戦国の終焉を読んで・・・

中公新書出版の戦国の終焉を読了しました。

先日もブログで紹介しましたが沼尻の合戦(1584年)の存在そのものを

全く知らなかったので大変勉強になりました。

実はこの本に加えて下山治久氏著の小田原合戦

さらに高志書院出版の上杉氏年表を併読している最中なのであります。

沼尻の合戦は今の栃木県の南部で行われた

北条家と佐竹・宇都宮などの北関東連合の合戦ですが

ちょうど同じ時期に

豊臣秀吉vs徳川家康・織田信雄の小牧長久手の合戦があって

この二つの合戦は微妙にリンクしております。

で、前から構想している謙信後の上杉家の戦記を進めていく上で

この二つの合戦は絶対に無視できないわけです。

ちなみに1584年の上杉家は何をしていたのかというと

4月に信濃(長野県)へ出兵して深志(現松本)の小笠原氏と戦い

5月下旬に越後へ帰国。

が、信濃は安定せず8月に再度信濃へ出馬。

10月に前田利家とともに佐々成政と戦うため越中へ出兵。

同26日には越中宮崎城を攻略。

軍を向けたのは信濃と越中だけですが

この間にも景勝に対して反抗する新発田重家の討伐を検討する書状を

越後下郡の諸将(色部氏や黒川氏など)へ送ったりしており

信濃の安定と越後国内の再統一に足をとられている状態でした。

信濃は徳川方の調略、とりわけ真田氏や小笠原氏あたりの暗躍が

あったものと思われます。

この二つの問題が早期に解決できていれば景勝の越山(関東への出兵)の

可能性も十分あったものと思われます。

前年の1583年に厩橋(現前橋)城が北条方のものとなり

さらに真田氏の所有する沼田城へも北条氏は兵を向けています。

北条氏直と徳川家康の娘督姫の婚儀はこの年(8月)に行われていますから

沼田城の問題で徳川氏と真田氏の間に隙間風が流れていた可能性大です。

真田家との関係をうまく調整できれば(事実1585年に真田家は上杉家に従属)

かつての謙信のように利根川あたりで北条家と一戦を交える

なんてこともあったかもしれません。

1584年は上野(群馬県)においては厩橋城は北条方でしたが

それまでずっと北条方であった太田の由良氏や同族の館林の長尾氏が

北関東連合に衣替えしていたので

ここに越後上杉氏が加われば北条家も相当苦戦することでしょう。

史上では沼尻の合戦後は北条家が国力の差と巧みな政治力で

佐竹氏らをふりまわし(佐竹与力の梶原氏が寝返ったりした)

さらに由良氏と長尾氏を再度屈服させるなど

沼尻以降かえって強大化しております。

(この辺の話は地図とかでビジュアル的に紹介できればいいんですが

そういう技術を私が持ち合わせていないだけに残念です。)

仮に景勝率いる上杉家が本格的に関東と関わると

もしかしたら東京の歴史も変わった可能性だってありますよ。

小田原合戦後に関東に封じられたのが徳川ではなく上杉ということも

十分考えられるからです。

これは根拠のない妄説などではなく実際にそんな意見が

豊臣秀吉の周囲にあったらしいのです。

                                                             

「八州が御静謐の上は、かの表の者共の過半を景勝につける」

と自分に対して仰せ出された。

この内容は富田知信・津田信勝・施薬院全宗も聞きおよんでいる

(天徳寺宝衍書状より)

                                                             

まあ結局この案は実現しなかったわけですが

景勝が史実以上に関東経略に関わっていれば

この案が実現した可能性は大いに高まりますね。

その場合徳川幕府は開かれたのかどうかとか

関ヶ原のような天下分け目の合戦が実現したかどうかは

何ともいえないところです。

まあこういった想像を働かせることも歴史の楽しさではあるんですが(笑)

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February 06, 2007

戦国の終焉

日曜日に「戦国の終焉」という文庫本を購入しました。

戦国末期の関東の争乱について少し勉強したかったので

買ってみたのですが

沼尻の合戦は全然知らなかったし

太田金山の由良一族が北条家を裏切って最終的には

所領を失っていることも全然知りませんでした。

この沼尻の合戦というのはなかなか興味を引きますね。

時期的に小牧・長久手の合戦と重なりますから

想像をたくましくすれば・・・ムフフフフフ(謎)

それと展開次第では上杉家が関東に転封された可能性もあったんですね。

もう少し読み下してからこのネタをUPしたいと思います

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July 29, 2006

信玄vs謙信

先日某国営放送局で川中島の合戦についてのアンケートをやってました。

トラマは正直どちらの意見にも合点がいきません。

というのはどちらの意見の要素も当てはまるし

当てはまらない部分もあるからです。

ただ通説の第4回川中島合戦にテレビ番組上でメスが

入った点は評価したいと思います。

実際に現地を周った人の意見などを総合すると

武田の迂回攻撃は成り立たないのではないか?

という説が強いですし

謙信が布陣した妻女山についても様々な説がありますし。

シミュレーション小説みたいな物語がそのまま史実になっちゃった

っていうことがどうも戦国の合戦に関しては多々ありそうです

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May 12, 2006

歴史群像新書の募集欄を読んで

小生が以前から書きたいと思っていた謙信亡き後の上杉家を

題材にした作品が優秀賞を獲得したようです。

ただ選考委員の意見から推測するに

ステレオタイプな上杉家評をそのままにした作品のような予感・・・

いや別にいいんだけどね。

ちなみにトラマのほうは・・・・なかなか進んでません

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April 08, 2006

鳥取遠征 鳥取城編

実は今日(8日)からお城祭りをやってるそうです。

もう一日ズレていればよかったかな(笑)

_206  大手門付近から撮影。

 桜が咲き乱れており、花見客がけっこういました

                                                             

_207  鳥取城は本来は後方の久松山に築かれた山城でした。

 それを近世に入って山麓まで規模を広げたのが今の姿

                                                             

_208  大手門の橋を渡る途中で撮影

 やっぱり桜が美しい

                                                             

_209  城内に明治に入ってつくられた仁風閣

 詳しくはリンクをご覧ください(手抜き)

                                                             

_210   城門です。

  保存されてたのか移築したものかどうか忘れました(^^;

                                                             

_211    石垣です。かなり高い石垣でした。

  鳥取藩のもう一つの城である米子城よりも石垣は高い

                                                             

_212   二の丸に作られた登り石垣です。

  朝鮮で築かれた倭城によく見られる作りですね。

                                                             

_213   二の丸(実質本丸)の御三階櫓の櫓台から見た鳥取市街

 山上の天守閣が焼けた後、事実上の天守閣でした

                                                             

_215  二の丸からさらに上の天球丸へ行く途中にある石垣

 積み方から判断して戦国時代の頃に近い(もっと前か)

                                                             

_214  二の丸に植えられた桜の木です。

 今頃はお城祭りでにぎわっていることでしょう

                                                             

_217  最後に吉川経家像です。

 あくまで個人的意見ですが彼は悲劇の人ではあったけど

 顕彰するほど鳥取に貢献したとは思えないんですが・・・

                                                             

格好が格好なので(スーツに革靴)山上の本丸は行きませんでした。

まあ行く時間も無かったのもありますけどね。 

中世城郭と近世城郭が微妙に組み合わさった城というべきでしょうか。

江戸時代は32万石の池田家の本拠とされただけあって

規模はかなり大きいです。

建っていた建物だけみれば支城の米子城のほうが5層の天守などがあって

立派なんですが石垣や堀、城下町の規模はやはり鳥取のほうが大きいですね。

米子城の大天守を久松山に移したらさぞかし見栄えのする

立派なものとなっていたでしょうね。

すぐに落雷で燃えちゃいそうですが(^^;

余談ですが私が好きな上杉家ももし会津に転封されなければ

春日山城も鳥取城のような石垣作りの近世城郭に変貌した可能性が

あったかもしれません。 

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April 03, 2006

戦国繚乱

去年文春文庫で文庫本で出た本ですが

戦国という時代で生きていく侍の悲劇を綴った三編が描かれております。

第一編が時流に翻弄された今の北九州から中津あたりを

地盤とした城井一族の悲劇。

第二編が戦国に生きる冷徹な大名として尊敬していた父を

様々な事情で殺さねばならない立場に

追い込まれた大友義鎮(のちの宗麟)

第三編が偉大なカリスマの死後の後継者争いの中で

戦国を生きる大将としてのつらさをかみしめながら

成長していった上杉景勝

戦国を扱った文庫本はたくさんありますが

最近読んだ中では一番面白い戦国歴史小説だと思います。

興味のある方はぜひご一読を

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March 31, 2006

城郭ファン必見サイト

このサイトは冗談抜きにしてスゴイと思う。

城好きでない方もぜひご覧になってください

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March 30, 2006

直江兼続って実は・・・

私はけっこうへそ曲がりな上杉ファンなのかもしれない

曰く「謙信は絶対天下は取れない」

曰く「上杉軍団って本当に日本屈指の精強な軍団か疑問」

曰く「謙信って本当に戦上手だったのか?」

などなど・・・・

で、最近脳裏から離れないのが

直江兼続って実はすっごいイヤミなヤツ

だったのではないかという疑念である。

私の歴史友達の三楽堂さんが運営されている戦国群像というサイトで

直江について紹介されているコラムがあるのだが

以前は直江の気宇壮大さ、気の強さを賞賛する気持ちがあったのだが

最近はどうもイヤミにしか見えないんですよ。

で、イヤミというと やっぱりこの人

で、この人が直江を演じたら数々のエピソードはきっとこうなるかと・・・

                                                             

その1 大阪城での伊達政宗との大判話

大坂城内の諸大名詰の間で、政宗が懐中から慶長大判を取り出す。

政宗「おのおのがた、ご覧になったことはあるまい?」

大名たちはみんな珍しがって回覧していき、

やがて末座にいる兼続の前に回ってきた。

その大判を兼続は扇子ですくって、

羽根突きみたいにポンポンはじきだしたというんだね。

政宗も心中は唖然ととしただろうけど、気配りの達人だから、

陪臣なので遠慮しているんだな、と思い、

政宗「山城(兼続の官名)、手にとって見るも苦しゅうないぞ」

兼続「情けない人たちだ、大名にもなってたかだか

   大判くらいで興奮するとは。

   私はあなた方とは志の大きさが違うのです。

   だから小人の手垢のついた代物をじかに

   触れるマネなどはしたくありません」

と言ってポーンと大判を投げ返す兼続。

そしてニヤリと笑みを浮かべながらその場を立ち去っていった・・・・

                                                  

その2 直江状(の勝手な解釈 (^^;))

「大老筆頭ともあろうあなたがずいぶん細かいことに

文句をつけるんですね?

なんとまあ器の小さい人だ。

まあ私はあなたがその程度の人間であることは

ずっと以前から知ってましたがね。

そんなあなたが天下の政を動かすとは

ずいぶんと寂しい世の中になったものです。

まあいいでしょう、こう見えても私は心の広い人間だ。

許しますよ、あなたの小心ぶりを(ニヤリ)

そういえば近々息子さんと同行で

こちら(会津)にいらっしゃるそうですね。

どうぞいらっしゃってくださいな、歓迎しますよ、そして

真の男の中の男とはどういうものかを

あなた方に見せつけてやりますよ(ニヤリ)」

                                                              

そりゃこんなイヤミなヤツがイヤミ満載の書状を書いたら

家康でなくても怒るわなァ(^^;

あ、あ、直江ファンの方怒らないで~(笑)

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October 04, 2005

海と陸と

網野善彦氏の著書を読んでみると

我々が想像していた以上に中世の人と物の流れの盛んであった

ことがわかります。

とりわけ移動手段で重要視されていたのが舟です。

道路が整備されまくった現在ではほとんどの河川に立派な橋が

作られてますけど近代以前は渡し船が主流ですね。

私の住む広島市にしても川に囲まれた街ですから

もちろん山陽道などの主要道路には橋はかかっていたようですが

車社会となる前まではやはり舟が主流でした。

何年か前に読んだ日経ビジネスでは関東大震災後の東京の復興案として

ヴェニスのような水郷都市にする、という案もあったとか。

今現在の東京の真夏の気温は猛烈なものがありますね。

特にビジネス街などはハンパじゃなかったです(汗)

そう考えるともし東京が水郷都市となっていたら

今よりもいくらか気温も低くなっていたかもしれませんね。

                                                             

さて船の利用というとどうしても切り離せないのが海賊。

海賊といっても悪いことをするわけではありませんよ(笑)

水先案内や荷物の運送、さらに護衛なども担っていました。

戦国時代にはいかほど海賊衆がいたんでしょうか?

思いつく限りを並べてみると

                                                            

若林水軍(大友氏)、松浦水軍(松浦氏)、村上水軍、毛利水軍衆(小早川も含む)

隠岐海賊衆、淡輪水軍、雑賀水軍、堅田水軍、伊勢水軍衆(九鬼も含めて)

今川水軍(のちの武田水軍)、北条水軍、里見水軍、安東水軍、南部海賊衆

                                                             

とりあえず私の思いつく限りの水軍ですけど

海に面した領国を持つ大名はほとんどが水軍衆と何らかの関係が

あったと考えるべきです。

上には書きませんでしたが本願寺や越後上杉氏なども

相当の規模の水軍を抱えていたことは間違いないようです。

でなければ石山本願寺は織田信長とあれほど長期間まで

戦争を続けることは不可能だったはずだし

上杉家にしても重臣の直江氏の苗字が地名で残っている(直江津)ところから

傘下に水軍衆を抱えていた可能性がかなり高いです。

ちなみに直江氏は家来なのに会津時代は30万石もの禄高だった

などという説があるくらい上杉家中では飛び抜けた存在です。

越後にいた時代から他の重臣や豪族で1万石を越える禄高を

持っていたのはほとんどいない(信濃の須田氏が1万2千石)なのに

直江兼続が一