大河ドラマ 「愛とアレの戦士」 さらばモニカ
妙な舞台演出も少なく(信長と謙信の対面シーンくらいか)
幾分かまともな演出だったですかねぇ。
吉江老と一条刑事(まだ言うか!)の自害シーンは涙をそそるものがあったけど
ドラマの兼続はとても彼らが後を託したくなるような御仁に見えないんだが・・・
おそらく企業経営者さんで兼続ファンの方がいらっしゃれば
十中八九は私と同じ意見だと思われます。
それと確かに本能寺の変は日本史における大変重要な出来事でしたが
率直に申し上げてこのドラマで取り上げ過ぎです。
もっと景勝以下が危機的な状況に追い詰められる様相を
深く掘り下げて欲しかったですわ。
【追い詰められてた上杉家】
先週の回あたりから上杉家が危機的状況に陥っておりました。
ドラマの兼続君は魚津城を囮にして北信濃の森勢を討とうとしてましたが
実際の上杉家はそんな小ざかしい策など打てるような状況ではありませんでした。
景勝は佐竹義重にほとんど遺言状としか思えないような手紙を送っております。
今回の演出で最も不満が残るのはこの部分を省いたことです。
※ちなみに火坂の原作にもありません。
この書状と後の関ヶ原時における上杉家中へ送った書状が
ある意味景勝の評価に関わるものだけに
絶対取り上げて欲しかったよなァ。
訳のわからん女忍者のアクションシーンなんか省いてさ。
たぶん「上杉景勝 佐竹義重」で検索を掛ければ出てくると思うので
その手紙が気になる方はやってみてちょ。
見つからん、っていう方がこちらに少し紹介されてるのでご参照を。
まさに神頼みの状態だった上杉家にとって本能寺の変は
奇跡以外何物でもなかったわけですな。
それゆえ毘沙門“洞”にて上杉主従以下が謙信を祀るのは
すごく理解できるものがあります。
【明智光秀からの手紙】
たぶん三楽さんのブログでも取り上げられるだろうけど
明智光秀が上杉家に味方募集の手紙を送ったのは事実です。
が、それが実際に景勝の下へ届いたのは本能寺の変が起きて
かなり時間が経過したあと。
ぶっちゃけ景勝の下へ届いたときには
光秀は既に討ち死にしてた可能性が高いのです。
景勝の書状が収められている上杉家の公式文書記録である
覚上公御書集に6月2日と日付があって
これが大いなる誤解を生んでいるわけで、物理的に不可能な話です。
まず包囲されている魚津城に明智の密使が入り込むこと自体が困難。
また上記の覚書には魚津の城将に須田満親の名前が出ておりますが
須田が魚津の城将となったのは本能寺の変の後に
柴田らが撤退した後のことです。
よって上記の記録の日付が改竄されたか書き間違っていたのか
その辺は定かではありませんが
いずれにしても上杉家が本能寺の変の事実を正確に知るのは
ずっと後のことであります。
GW期間中から色々とバタバタしておりまして
天地人をあまり見ておりません。
お船さんが本懐を達成して喜びの涙目だったとしか思えない、とか
長澤まさみが出てくるたびに
雑巾を投げつけようとして周囲に止められた
ことを白状いたしますw


Comments
>こちらに少し紹介されてるのでご参照を
>>景勝は御館の乱や織田信長の戦いといった戦さの中で武功を立てたわけではなく、とても戦さ上手とはいえない。
(ノ∀`)・゚・。 アヒャヒャヒャヒャ
そのとーり!
Posted by: 鶴居村 | May 12, 2009 at 02:23 PM
ま、アンチ景勝なお鶴さんなら
絶対そこに目をつけると思ったよ
Posted by: トラマ | May 12, 2009 at 11:22 PM
鶴的にはアンチのつもりはないんだが。
「愛すべき戦バカ」っつうことで。
あのジーコだって、選手としちゃ超一流だったしね。
Posted by: 鶴居村 | May 13, 2009 at 11:31 AM