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April 12, 2008

景勝・兼続主従の夢の跡?

Youtubeで会津・神指城完成予想図をUPされている方がいました。

ご存じない方のために簡単に説明すると

神指城とは上杉景勝が1600年に築きはじめた城で

この城の築城をネタに徳川家康は上杉家へイチャモンをつけた事が

後の関ヶ原の合戦へとつながっていきます。

それだけいわくつきの城だったのですが

未完成のうちに上杉家が戦争状態に入ってしまい工事は中断。

結局米沢へ転封されてしまったためにそのまま廃城となりました。

石垣などの資材は会津若松城の増改築に転用されたようです。

戦国関連の雑誌などを見ると徳川軍をおびき寄せのための城と

書かれてた記事が多かったようですが

実地を検分したり発掘調査などの結果から

上杉家は本気で本拠地を会津若松城から移そうとしていたことが

立証されてきているような気がします。

また幕末の奥羽戦争で会津若松城がすぐ近くの小田山から

砲撃をうけて大損害を出したことから

上杉家が若松城の弱点(山が近く、そこから砲撃されると脆い)

を認識していたという伝聞も正しかったようですね。

紹介した動画を単なる妄想と決め付けるのは簡単ですが

(本丸に御殿が無いのと天守閣の破風が直線的すぎる点が残念)

完成していればこの動画に近い規模の城となっていた可能性は高いと思います。

まあ来年の大河ドラマではどう扱うんでしょうね。

工事中でなーんも画が出ないうちに終わっちゃいそうな気がしますが

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Comments

何の因果か、神指城の実地調査(らしきもの)を企てたことなどございます。
あの頃は古地図のコピーを何枚でも取れましたが、今はもうダメでしょうね。

>実地を検分したり発掘調査などの結果から
上杉家は本気で本拠地を会津若松城から移そうとしていたことが立証されてきているような気がします。

蘆名や蒲生の記憶が残る黒川城では、政治的にも不都合だったでしょうな。

>また幕末の奥羽戦争で会津若松城がすぐ近くの小田山から砲撃をうけて大損害を出したことから上杉家が若松城の弱点(山が近く、そこから砲撃されると脆い)を認識していたという伝聞も正しかったようですね。

砲撃よりも、この方面の山間地に伏兵を配置されるのを恐れたのではないかと。
幕末ならともかく、射程たかだが700m前後の戦国時代の大砲に、そこまで破壊力はないと思います。

Posted by: 鶴居村 | April 13, 2008 at 02:56 PM

>鶴居村さん

政治的不都合というよりも
権威の象徴的な意味合いが強いかと。
それと城下町が手狭であった感はあります。

>砲撃よりも、この方面の山間地に伏兵を配置されるのを恐れたのではないかと

いや朝鮮出兵で上杉家は現地で戦った経験はありませんが
戦訓は色々と聞いているはず。
確かにカルバリン砲でも距離は微妙に短いですが
城下へ向けて砲撃されるのはあまりいい気分ではないでしょうし
砲撃されれば逆襲に転じにくくなります。
まあ何よりも小田山から若松城が丸見えっていうのが一番の問題点かと。
毛利家の萩城みたく小田山も取り込んだ城作りという発想は無かったみたいですが

Posted by: トラマ | April 13, 2008 at 10:48 PM

萩城の場合、山の向こうは海=天然の堀だったのでは?(うろ覚えだけど)

小田山とその後背地は、若松城の死角に兵を潜ませておくには絶好の地形。蘆名氏以前からの土着勢力も残っている会津に来て日の浅い上杉が、見通しの効く平野に出るのは当然でしょうね。

しかしながら「砲撃戦」の想定はどうか?

戊辰戦争でも、西軍はまず鶴ヶ城東側の会津兵を駆逐してから、砲撃を始めています。
音は大きいわ移動は難しいわ、敵に肉薄される場所で使えないのが大砲の宿命。
野戦に慣れた軍勢なら、撃たれればすかさず敵の位置を把握、野戦に持ち込んで逆襲してきます。
城にこもりっぱなしの秀頼ならともかく、上杉相手にえらく効率の悪い話ではないかと。

Posted by: 鶴居村 | April 14, 2008 at 06:53 PM

>鶴居村さん

萩城を出したのは
要は山城部分と隣接した城郭って意味ですよ。
堀とか海とかは関係ありません。
別に春日山城を出しても良かったんですが
豊臣政権から山城禁止令(のようなもの)が出されていたはずなので
小田山に改めて城をっていう発想は無かったんでしょうね。
地形的に言っても小田山を中心とした巨大城郭って
いうのは建設が難しかったと思います。
っていうか小田山って一応葦名時代は立派な山城が
築かれていたんですよ。
後により堅固な向羽黒山城が築かれて
そちらに軍事機能は移転しますので黒川城の
物見的な役割しか果さなくなっていたんじゃないかと思われます。
ちなみに向羽黒山城は上杉時代も存続・改築されていたようです。
↓をご参照ください。

http://www17.ocn.ne.jp/~aizua/page024.html

砲撃戦については会津戦争にそれほど詳しいわけじゃないので
まともな返答になっているか疑問ですけど
小田山が元々城跡だっただけに
相応の防御施設は組めるはずなので
大砲の設置さえできれば(これが一番困難だが)
そこへの肉薄攻撃は困難かと思いますが・・・

若松城が包囲された状態であったとしても
敵の攻撃をしのぎつつ馬出しなどから逆襲する部隊を
投入できればまだ勝機はあるでしょうけど
その逆襲の拠点となる郭を頭上から砲撃されたら
反撃もできずにジリ貧となる。
そういう想定もあったんじゃないかと思います。

ま、でも一番の要因は経済的なものだったと思います。
越後との関係(水運の利用)もあったんじゃないっすかねぇ。

Posted by: トラマ | April 14, 2008 at 07:49 PM

>っていうか小田山って一応葦名時代は立派な山城が
築かれていたんですよ。

なるほど。戊辰戦争で田山の僧侶(葦名氏)が西軍に有利な地形を紹介したのは、そういう言われがあるわけですね。

>大砲の設置さえできれば(これが一番困難だが)
そこへの肉薄攻撃は困難かと思いますが・・・

戊辰の西軍のように在地勢力の協力を得れば、砲兵陣地の構築も可能でしょうな。

そういえば上杉は、会津で大々的に浪人を召抱えているけど、先住土豪を取り込んだ形跡はあまりないですね(その時間がなかったせいでしょうが)。山内氏の土佐経営とちょっと似ているかな。

>ま、でも一番の要因は経済的なものだったと思います。
>越後との関係(水運の利用)もあったんじゃないっすかねぇ。

ここは大賛成。
鉄道の発達で廃れる以前は、大川(阿賀川)を経て、会津から越後へは木材を、越後からは会津へは塩や海産物を運搬してましたからね。
海運国・越後から移ってきた上杉氏が、水運の重要性を見落とすわけがない、ですな。

Posted by: 鶴居村 | April 14, 2008 at 09:43 PM

>鶴居村さん

横田氏など現地土豪でも城代まで上ったのもいるし
景勝の愛人(?)などと噂された清野長載は
会津四天王平田一族の出身です。
蒲生家に採用された現地土豪がそのまま上杉に
というパターンも多いかもしれません。

水運についてもうひとつ付け加えると
戦国から近世初期の会津は河川が何本も流れていた
水郷地帯だったらしく
大川の水量も今とは比較にならなかったようです。
事実江戸初期の大水害で会津盆地に巨大な沼が発生し
20年くらい干上がらなかったそうなので。
現在の地形からするとただっ広い野原ですが
当時は意外と攻めにくい地形だったのかもしれませんな。

Posted by: トラマ | April 15, 2008 at 08:45 AM

>横田氏など現地土豪でも城代まで上ったのもいるし景勝の愛人(?)などと噂された清野長載は会津四天王平田一族の出身です。

なるほど、ちゃんと現地採用もしていたんですね。

>戦国から近世初期の会津は河川が何本も流れていた水郷地帯だったらしく大川の水量も今とは比較にならなかったようです。

大川を通って塩を荷揚げしていた「塩川」のあたりは、何度か通ったけど、本当に今では想像がつきませんね。
神指城跡も、戦後の農地改革でずいぶん様変わりした話を聞きました。

天然の水濠と水運というと、城作りのコンセプトとしては、春日山城よりも越後府中(御館)に近いように思います。それも景勝・兼続主従の「夢」だったのかな?

Posted by: 鶴居村 | April 15, 2008 at 11:35 AM

>鶴居村さん

>天然の水濠と水運というと、城作りのコンセプトとしては、春日山城よりも越後府中(御館)に近いように思います。それも景勝・兼続主従の「夢」だったのかな?

あの頃に築かれたいわゆる織豊系城郭というのは
河川の近くの交通の要衝になっているところに
作られたものが多いので(例:大阪城や広島城)
そういう“トレンド”に乗っただけ、という
うがった見方もできるかと思われます(笑)
まあ土木工事はある意味富と権力の象徴みたいな
ものですからねぇ。
実際神指城がそのまま建設されて会津の首府となったら
今の会津地方がどのようになっていたかを
想像するのは楽しいことですが。

Posted by: トラマ | April 15, 2008 at 01:38 PM

>そういう“トレンド”に乗っただけ、といううがった見方もできるかと思われます(笑)

時代遅れの山城(春日山)暮らしにうんざりしていた、というさらにうがった見方も(笑)

>実際神指城がそのまま建設されて会津の首府となったら今の会津地方がどのようになっていたかを想像するのは楽しいことですが。

「会津士魂」にはならなかったでしょうね。
商都の発達を見込める水郷地帯をわざわざ避けるあたりに、幕藩体制の窮屈さを感じてしまいます。

Posted by: 鶴居村 | April 16, 2008 at 11:49 AM

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