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September 25, 2007

結局謙信は後継者を決めてたのか?

歴史群像の御館の乱の記事を読んで以前くだらない

反論をしたのだがどうにもスッキリしない。

謙信が景虎を後継者にしようとしていたのは

状況証拠からいって明らかだ、と言い切っちゃうのはどうかと・・・

確かに弾正少弼の件で景勝が自称した可能性があるのは否定はできんが

当の景虎が葦名家への手紙で景勝のことを少弼と記入しているのは

どう説明したらよいのか?

弾正少弼に景勝が任じられたとき祝いの席が設けられたという話もある。

何から何まで景勝が簒奪した、というのもどうかと思う。

というか

謙信はなーんも決めてなかったのが真相じゃね?

正確には決められなかったんじゃないかと・・・

俺は景勝が後継者の地位を勝ち取ったという風に見ている。

景勝と景虎はほぼ同格(やや後者が上だが)だったんじゃないかと思うのだ。

もちろんそれぞれの家格を比べれば確かに景虎のほうが上だ。

だがどちらかを後継者に擬していたのであれば

大々的に宣伝するのが普通だよね?

上記の歴史群像でもそれらしい事例(景虎が寺社へ礼状を発していた)を

取り上げいたし、御館の乱のときに居多神社などが景虎に味方したとか

何よりも軍役が課せられていなかったから

というのもあるんだが

まともな譜代家臣団を持たないで大名家なんてやってられるのか?

それってこじつけに近い感じが俺はするんだがな。

それに景虎が合戦に出た、って話を聞いたことが無い。

景勝は謙信の名代で何度か合戦には出ている。

これだけでも景勝が十分高い地位にいた証拠じゃないのか?

                                                           

景勝=越後国主

景虎=関東管領

                                                            

これが機能するかどうかは別問題としても

結局謙信が考えていたのはこの線に落ち着くと思うんだがな。

元々上杉家は関東管領家と越後家って別だったわけだしねぇ。

っていうか

景勝のほうが勝ったわけだから器量が上だった

これが結論っしょw

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Comments

記事エントリーをお知らせくださり、ありがとうございました。
御館の乱につけ、何につけ、ここのところ考えていないことだったので・・・^^;

>まともな譜代家臣団を持たないで大名家なんてやってられるのか?

実は私も、この点に関してはずっと違和感がありました。専門家のお偉いさん方が言っていることなので、ということもあって、口を閉ざしていたのですが・・・
軍役を課さないことで、むしろ違う分野を景虎には期待していたのかなあ、とふと思ったりもします。例えば司祭的な役割を負わせようとしたとか…。

>景勝のほうが勝ったわけだから器量が上だった

あの乱をクーデターととる向きもありますが、いずれにしても景勝にとって大きな試練だったことには間違いないわけで…。


Posted by: よーぜん | September 26, 2007 at 10:50 AM

トラマさん、よーぜんさん、どうも。

>軍役を課さないことで、むしろ違う分野を景虎には期待していたのかなあ、とふと思ったりもします。例えば司祭的な役割を負わせようとしたとか…。

わたしもこの考えに賛成かな。
たとえば、長尾晴景と景虎の兄弟の対立も、守護の上杉定実が仲裁していますね。
実権のない守護でも、守護代の長尾氏の内紛を調停する機能はあったわけです。

上杉家の権威を使って越後の内紛を収拾したのが謙信。
それをぶち壊して内乱を再発させたのが景勝。
そういう見方もできるのでは?

>景勝のほうが勝ったわけだから器量が上だった

よしんば正当に家督を継承したとして、謙信が擁立した関東管領を殺害したのはやり過ぎでしょう。
だいたい、憲政の敵=関東諸将の敵ですよ。
謙信の後継者というのは実はウソ、と自ら宣言しちゃったようなもので、だからこそ憲政・景虎の死後も内紛が続いたんじゃないだろうか。

あくまで私的な感想だけど、景勝は「勝った」んじゃなくて、「勝たせてもらった」んじゃないかと。

Posted by: 鶴居村 | September 26, 2007 at 11:39 AM

よーぜんさん、鶴居村さん、コメントありがとう(^^)
家臣団の立場にたって考えると二人の養子で
どちらが頼りがいのある主君となりそうか?
ってことを考えるとやっぱり景勝かな、と。

景虎が謙信存命中にやっていたことは
北条家との取次ぎみたいなことだから
それを考えると関東管領として関東の諸大名の調整役
みたいなことを期待されていたのかもしれませんね。
その際の後ろ盾というか武力的権威を景勝が担う。
こんな感じだったんだと思います。
景勝は“本来の長尾家の役割”を期待されてたんでしょうね。
ただ・・・これだとどっちが君主なのかわからん状態で
結局上杉家は二つに割れる運命だったのやも。
仮に内乱が起こらなかったとしても
上杉家は古い体質を改善できないまま織田家や豊臣家と
対峙することになり、下手すると
分裂状態のままで収拾できなくなるおそれもありますな。

>あくまで私的な感想だけど、景勝は「勝った」んじゃなくて、「勝たせてもらった」んじゃないかと

不利な状況でもわずかな隙を見逃さず有利な方向に
持っていったんだから
景勝は自力で勝ち抜いたんですよ。
武田に旨いところを持っていかれたように見えたとしても
彼の政治的手腕は決して価値を失うものではありません

Posted by: トラマ | September 27, 2007 at 06:40 PM

>上杉家は古い体質を改善できないまま織田家や豊臣家と
対峙することになり、下手すると分裂状態のままで収拾できなくなるおそれもありますな。

現に分裂状態のままで織田家と対峙しましたが?
本能寺の変では、1762年のフリードリヒ大王なみの強運に救われました。
が、そもそも謙信の時代に外交を担当した部将や寺院が健在であれば、武田に追随して危うく運命を共にするところにまで追い詰められていただろうか?

>不利な状況でもわずかな隙を見逃さず有利な方向に
持っていったんだから

敵の隙を見逃さない“武闘派”の勘は認めますが、あの時点で直属の兵力を持たない憲政、景虎を殺す必要があったのかどうか。
特に憲政殺害=主筋殺しは、内乱を終息させるどころか、各地の長尾氏の抵抗を招く動機になった可能性も否定できない。

景勝と景虎の対立というシナリオをいま少し離れて、越後を含む関東全域の政治地図から見直すと、乱のより本質的な部分が見えるように思います。
関東管領上杉氏の存在が邪魔で、かつ越・相の再同盟は阻止しておきたい勢力が、越後のすぐ隣に存在します。

乱の火付け役は、敵国・越後の内部分裂と上杉氏の消滅を狙った武田勝頼。景勝はその策にのせられて自らの手足を討った。

そんなところではないかと思います。

Posted by: 鶴居村 | September 28, 2007 at 12:52 AM

>鶴居村さん

譜代家臣の力の弱いままで集権的な体制が
最後の最後まで形成できないだろう、って意味ですよ。
本能寺の変が無かったらあるいは武田家のように
なっていた可能性も否定はできませんが
それはそれとして
以後の景勝の家中統制は1587年の新発田討伐でほぼ完成します。
上田衆を中心に謙信時代とは異質な組織となったように
私は思います。
それと外交に関しては御館の乱で討たれた神余氏については
確かに痛かったかもしれませんが
謙信時代末期に外交文書を取り次いでいた面々
例えば山崎秀仙とか竹俣慶綱、斉藤朝信らは
皆景勝についてます。
仮に内乱が起きなかったとしても史実同様に
織田家と和睦なんてできなかったと思います。
(武田家・上杉家はともに織田との和睦を望んでいた)

上杉憲政・景虎を斬った件については
あくまで結果論に過ぎないと思います。
直江が後に前田利家らに向かって

「当家は関東管領家ですから・・・」

って言ったという話を読んだときはさすがにオイオイと思いましたが(笑)
仮に彼らが生きていたとしても
分裂の目は残ってたわけでして大して変わらなかったのでは?
まあ景勝時代に一度も越山が無かったのは
もちろん越後の状態もありますが
彼らを斬ったことも微妙に影響しているのかもしれませんね。
景勝は実城様(越後国主)であって御館様(関東管領)では無い
とこの時点で割り切ったのかもしれません(推測ですが)

最後に武田勝頼については彼個人については
なかなかの人物だったとは思いますが
そこまで賞賛する気にはなれません。
北条とケンカしないようにもっとうまくやれよ
と言ってやりたい気分だからです(^^;
勝頼がそこまで考えていたなら
むしろ北条とは縁が切れないようにもっと上手く立ち回れた
のではないかと思うのですがね。

Posted by: トラマ | September 28, 2007 at 02:27 AM

>譜代家臣の力の弱いままで集権的な体制が
最後の最後まで形成できないだろう、って意味ですよ。

初期はともかく、河田氏や神余氏の動向をみても、謙信時代の譜代家臣の力が弱かったとはいえないと思います。
むしろ、強力な譜代がいたからこそ、在地勢力を牽制、統御できたとみるべきは?
譜代衆の分裂で、パワーバランスが崩れたせいで、在地勢力の反乱を呼び込んだという見方もできると思います。

>以後の景勝の家中統制は1587年の新発田討伐でほぼ完成します。

豊臣の支援あればこそ、景勝が独力で平定できたわけではないでしょう。
威光を借りようが何だろうが、家中を統制できたことにかわりはないけど、謙信の死の直後からその方向性だったというのは無理。

>上田衆を中心に謙信時代とは異質な組織となった

ここは同意。
ですが、自主的に集権体制を整えたというよりも、朝鮮遠征への従軍や強制的な国替えといった「外圧」の結果が、そういう形に落ち着いたのだと思っています。

>例えば山崎秀仙とか竹俣慶綱、斉藤朝信らは皆景勝についてます。

竹俣氏の動向は浅学にして未詳。
が、山崎秀仙はもともと佐竹寄り(反北条)だし、斉藤朝信の弟は御館方だったはず。
飯山の岩井氏も、同族で両陣営に別れているし、上田衆は別として、ほとんどの家は関ヶ原の真田のように「保険」をかけていた可能性が高い。
景虎が勝っていたとして、当主こそ変われ家名そのものは変わらなかったと思います。

>直江が後に前田利家らに向かって
「当家は関東管領家ですから・・・」
って言ったという話を読んだときはさすがにオイオイと思いましたが(笑)

東国でそれを言ったらエラいことですな(笑)。

>仮に彼らが生きていたとしても分裂の目は残ってたわけでして大して変わらなかったのでは?

そこは全く逆に考えています。
長尾為景が上杉房能(越後守護)・顕定(関東管領)を討って内乱を続行させ、晴景・景虎の二代で再び上杉氏を推戴して収拾した。
謙信の後継者が、その越後政局のセオリーを知らないということが、あり得るでしょうか?

景勝に政治的センスがあれば、分裂の芽を摘み取るためにも、山内上杉を温存し、北条と再度の友好関係を結んでいたと思います。
が、実際には全く反対のことをやっているわけで、なぜそこまで暴走したのか疑問なんですね。

>勝頼がそこまで考えていたなら
むしろ北条とは縁が切れないようにもっと上手く立ち回れたのではないかと思うのですがね。

乱の途中まで、実に巧妙に立ち回っていたと思いますよ。
景勝が関東管領を消してくれたおかげで、堂々と無主の上野に手を伸ばせるようになった。
そこまではよかったけど、勢いあまった景勝が景虎父子を殺害して、計算が大きく狂ったのではないでしょうか。

もともと勝頼は景勝と景虎の「仲裁」役として介入しているので、憲政は対象外です。
目障りな関東管領を都合よく消してくれた。そこまではいいが、まさか自分の義弟にあたる景虎まで殺害するとは、勝頼は想像していなかったのではないでしょうか。

この時点では菊姫はまだ越後に来ていないし、武田と北条の絶縁はもう少し先のことです。
つまり、景虎を殺せば、北条と同時に武田まで敵に回す可能性もあるわけですが、景勝はそこまで考えなかったのか?

Posted by: 鶴居村 | September 28, 2007 at 12:15 PM

>鶴居村さん

鶴居村さんの意見だと景勝は大将にはなれないですね(笑)
僕は御館の乱は上杉家の組織の構造上起こるべくして
起こった事件だと考えておりますので。
戦乱が起きない状況を考えると
景勝側が引くしか考えられないわけですが
背景となっている上田衆の意向なのか
どうなのかわかりませんが
彼は引く気はまるで無かった。
長尾顕景のままだった方が良かったのかもしれませんね(^^;
ただ謙信ほどの権威も武力も無い景虎がどこまでやれるのか・・・
って私は何様のつもりなんでしょう(爆)

景虎と憲政を斬ったのは騎虎の勢ってやつでしょう(笑)
合戦で

「おい!大将(景虎)捕まえるから少し手を抜け」

って言われても抜けるもんじゃないだろうし
鮫ヶ尾城では完全包囲された状態ですからねぇ。
景勝も目の前の相手を倒すことに集中してたんでしょう。
というか景虎が景勝の包囲から逃れたとしたら
北条にしろ武田にしろ上杉に介入するための道具にされる
だけのような気がしますね。
だから余計にことがこじれそうな気がしますわ。

ちなみに菊姫の件はすでに祝儀を贈っていましたから
景勝と勝頼の同盟関係は成立していましたよ。
景虎の存否はこの時点では関係ないと言えるのでは?

家中の整備、というか新発田の討伐については
ある条件が整えば自力で何とかできたんじゃないかと
私は思っております。
ようは戦力を集中できる条件を整えられたか否か、ですね。
ご承知のように北信濃や越中方面に戦力を取られて
なかなか兵を回せず、それがあの乱が長引いた原因となります。

ただそれを置いておいても謙信時代よりは遥かに集権的な
体制を作り上げる条件はあったと思います。
旧族家臣(両本庄氏や北条家、古志長尾氏など)の没落や
直江家や小国家などに象徴される上田衆の浸透などですね。
確かに謙信時代の後期に入ると譜代とか子飼の家臣が
増えていきますが
まだ揚北衆らの国人衆を抑えきるまでの力は無かったと思います。
その証拠に揚北には謙信は直轄領は設定できなかったですから・・・

実はこれらの事をテーマに一筆したためようとしておるのですが
生来の怠け者ゆえになかなか筆が進まず・・・(^^;)
それらしいことは過去ログにちょこっと触れてますが。

まあでも勉強になりました、ありがとうございます。

Posted by: トラマ | September 28, 2007 at 06:13 PM

>鶴居村さんの意見だと景勝は大将にはなれないですね(笑)

ヤクザの世界なら、腕っこきのヒットマンだけど組長には不向きのタイプではないでしょうか。
極妻・直江がいなかったら、どうなっていたやら。

>僕は御館の乱は上杉家の組織の構造上起こるべくして
起こった事件だと考えておりますので。

もともと越後では、象徴的なトップである守護(上杉)と実質的なトップである守護代(長尾)が並立していたわけで、その伝統な構造をわざわざ崩して何をするつもりだったのか?
景勝の行動には、明確な意思が見えないですね。状況に振り回されて、ただ条件反射的な行動を繰り返すだけのような気がする。

別の方向から考えてみます。
謙信の軍事権を引き継いだ景勝と、憲政の関東管領を継承した景虎とが平穏に並立した、とします。その場合、困るのは誰か?

武田と北条は、関東管領の領地である上野を共同で攻略してきたしてきた仲。
が、景虎を通じて関東管領と北条の和解が成立した場合、北条と上杉(+長尾)とが管領領・上野を協議の上で分割し、ひとり武田が領有権をはずされる可能性が出てきます。
領土拡張が国是である武田の当主としては、先代から続けてきた上野攻略を断念するわけにはいかないでしょう。
北条との同盟を維持しすつ、上野の領有権も主張するためには、上杉と北条を和解させてはならない。

ほかならぬ武田勝頼こそ、越後における憲政、景虎、景勝の三者の共同歩調を、何としても阻止する必要を感じていた当人ではなかったか。

>景虎が景勝の包囲から逃れたとしたら
北条にしろ武田にしろ上杉に介入するための道具にされる
だけのような気がしますね。

そういう状況を作ったのは景勝自身でしょう。
管領殺しの上に景虎の子息殺しときては、弁解の余地がない。へたすると祖父・為景さながら国際指名手配犯。
「国外にバレたらマズイ!」焦るあまり、泥棒の現場を目撃された中3男子のような行動に走ってしまったのではないだろうかと(笑)。

>ちなみに菊姫の件はすでに祝儀を贈っていましたから
景勝と勝頼の同盟関係は成立していましたよ。

織田信忠と武田松姫も祝儀を取りかわしていました。同盟関係は武田を救いましたか?
そもそも、勝頼と景勝の同盟関係に、有力な立会人はいたでしょうか。第三者の立会いのない盟約を一方的に反故にしたところで、勝頼にとっては実質何のリスクもありますまい。
ましてや景勝はこの時点で「主殺し」の前科者ですから、庇護するだけ損…という見方もできます。

>ご承知のように北信濃や越中方面に戦力を取られて
なかなか兵を回せず、それがあの乱が長引いた原因となります。

これが謙信や信玄だったら、戦力を取られるような局面になる前に手を打っていたでしょう。
景勝は、目先の戦場を追いかけるだけで精一杯。そこが器量の限界かな。

>ただそれを置いておいても謙信時代よりは遥かに集権的な
体制を作り上げる条件はあったと思います。

何よりも時代の波でしょう。

Posted by: 鶴居村 | September 29, 2007 at 12:49 AM

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